遺書(ver.2024)

木曜日なので特別記事なのですが。
今回は、ちょっと本当の意味で特別な記事になります。
いつもはリクエストに応える記事なんだけれど、今回はちょっと考えるところがあったのでそれを私の都合で特別に書かせていただきます。

「遺書」
ちょっと強い言葉のタイトルかもしれない。
でも、それには理由がある。
もちろん、私は死ぬつもりもないし死にたいわけでもない。
だからこそ、書いておかなければならないのかなと思う。

最近、命についてよく考える。

吉江さんが試合後に亡くなったということもひとつ。
同僚の岡田佑介選手が命の最前線で戦っているってのもひとつ。
一時代を作った方々が次々と鬼籍に入られていることもひとつ。

人間、生きている以上、死は避けられない。
だからこそ、考えなくちゃいけない事のひとつだろう。
今回の「遺書」という言葉、記事タイトルが重い意味を持つことはわかっている。
気楽にそんな事言うんじゃねえよっていう意見があるかもしれない。
ただ現実として、人間は生きている間にしか死についての考え方を言葉にすることは出来ない。

今、私が死んだとして。

死んだ後では伝えたいことを伝えられない。
伝えたかった言葉は、死んだ後からでは作り出せない。
だから、今。
生きているからこそ言葉にしなきゃいけないのかなと思った。

繰り返すが、私は死にたいわけじゃない。死ぬつもりもない。
こういった遺書は今後もずっと書き続けるつもりだ。
その時点での遺しておく言葉。
生きている今でしか書けない言葉。
だから今回の記事は、「今の時点での」遺書と思ってもらって構わない。
来年にまた書く。書きたい。書けるように生きていく。

------------
プロレスラーは、普通に生きているよりは死に近い職業だと言えるだろう。
スポーツ選手は身体を動かしている以上、何かしらで身体に負担をかけている。
その中でもプロレスは特殊だ。
普通のスポーツは「相手の技を出させない」ように立ち回る。
しかしプロレスはまったくの逆。
相手の技を出させる、受け止めるような行動を取る。
試合があるごとに、ヤベー角度から落ちたり殴られたり蹴られたりするわけだ。
その分、やはり死に近いと言って差し支えないと思う。

私は、プロレスが好きだ。
だからこそプロレスで死なないようにしなければならないと思う。

それでも、事故は起こり得る。
それがプロレスだし、人生なのだと思う。

ただ、私が今もし死んだとしても。
プロレスが好きだということは死んだ後も伝わって欲しい。
生き続けたとして、今後もプロレスを続けられるかはわからない。
でも、きっと好きだという気持ちは変わらない。
それこそ、死ぬまで。

私は世の中の全部のエンタメを知ってる訳じゃない。
でも私が知る中で、プロレスが1番人間を描けるコンテンツだと思っている。
八百長とか、馴れ合いとか。
そういう世間のイメージがあるけど、そんなもん知ったことじゃない。
そう言う人の考えも尊重はするけども、芯を食ってない考え方だなとも思わせてもらう。
プロレスよりも人間の想いを形にできるコンテンツを私は知らない。
他のジャンルも素晴らしいことは知っている。
でも、プロレスは私にとって一番素晴らしい。
メジャースポーツになるかどうかはさておき。
多くの人に知って欲しい気持ちはある。
少なくとも、規模はどうであれこのまま永遠に人の心を打ち続けて欲しいとは思う。

これはプロレスラーがことさら凄い、と言いたいのではない。
そして、死に近いから偉いというわけでもない。
それを言うと死にもっと近い職業の人たちだって世の中には多くいる。
ただ、一方でプロレスラーは充足感を得やすい職業でもある。
死は比較的近いのだけれど、満たされる要素も多い。
お客さんの歓声であったり、試合後の反応であったり。
だから、乗り越えたはずの死が充足感で薄れてしまう。
何が言いたいかというと、プロレスラーは少なくとも普通に生きているよりは死が近いはずなのに、お客さんが喜んでくれることで死について考える要素が薄まっているんじゃないかってこと。

お客さんがいるから痛い技を受け止めることができる。
喜んでくれる人がいるから、リスクを背負うことができる。
それはプロレスラーである人のほとんどは本当にそうなんだと思う。
私がプロレスラーを代表するつもりはないけども。
そうじゃなきゃ、技なんて受けられない。
そこはまあさて置き。
今回の記事は、私自身があまり考えてこなかった死について考えたい。
そして書き記しておきたい。


私は、今死ねない。
何度か言ってきた。
今の私には、ハクがいるからだ。
これはリアルな感情の部分。

ただ現実として、今私が死んだ場合。
ハクを面倒見てくれる人は、一応いる。
保護犬として里親になる際に、私が何かあった時のために預けられる先はあるかという確認がある。
その時に話をつけた人、今でも何かあったらお世話になっている人がいて、その人にもう一度改めてお願いをしようと思っている。
なるべくならハクが死ぬまでは生きて看取りたい。
ハクがこの世に生まれて、死んでいなくなるまで私の目、脳に刻み込みたい。
でも、そうはならなかった場合。
ハクが死ぬ前に思い出した時の記憶に、私がいてくれたら嬉しいな。

私の両親もまだ生きている。
綺麗事だけで言うならば、親よりも早く死ぬわけにはいかない。
ただ、私ももうすぐ47歳になり、何が起きてもおかしくない。
プロレスだけがどうこうではなく一人の中年として。
その場合は、悲しませて申し訳ないけども何とかやっていって欲しい。
遺産はそんなにない。好きに使ってください。
そんなに遺すものはないはずなので、手続きに沿ってくれればよいかと。

ハクを含めた家族に現時点で伝えることがあるならば。
私は今のところ幸せです。
決して、一般的な生き方はしていないけれど。
好きな事して生活できています。
小さい頃からずっとゲイムが好きでした。
ゲイムばっかりやってて怒られたりしたけれど。
でも、今は大切なお仕事として生活の糧になってます。
大学にも通わせてくれたにもかかわらず、プロレスばっかやってて2年も留年してしまいました。
ただ、その時に学んだことが今も職業として生きています。
感謝しかありません。
私が生きてきた幼少時代青年時代は、すべて今に繋がっています。
私がどんな生き方をしてどんな選択をしても、あなたたちが私を尊重してくれたからです。
だから私も、尊重できる人間でいたい。
先祖がどういう考え方かわからないけど、私にとっての「家」はあなた方です。
少なくとも2代くらいは家訓として「尊重」を大切にしたい。
この先はわからないけども家として続くことがあるならば、「尊重」を後世にも伝えていきたい。でも、一方で後世の考え方を尊重したら残らない可能性もあるというジレンマもあるけども。
私を育ててくれた恩は、たぶん一生かけても返せないでしょう。
だから、せめて。
私はなるべくあなたたちより長く生きて送り出すつもりです。
遺書と銘打った文章でこんなことを言うのもおかしな話だけどね。
でも、本心です。
私がこの年になるまで考えた恩返しのうち、今のところのベストは。
あなた方に感謝することです。

「産んでくれて、育ててくれて、信じてくれてありがとう」

順当にあなた方が先でも、何かあって私が先でも。
どちらでも最期の瞬間はこう言えるように願っています。

そして遺してしまう場合、ハクへ。
うちに来てくれてありがとう。
私は家にいない場合が多く、夜遅く帰ってくることも多い。
「普通の幸せ」ってなんなのか私にはよくわかんないけど、普通の幸せを与えてあげられなくてごめん。
でも、他の家と比べるでもなく。
愛してるよ。
私は、君と出会えてよかったと心から言える。
君と出会って、良い意味でも悪い意味でも私は変わったと思う。
私は今の生活が大好きで、続けばいいなと思っている。
でも、そういうわけにはいかない。
その日は確実にやってくる。
私が先か君が先かはわからないけど、先に伝えたい。

「私の人生を変えてくれてありがとう」

最期に。
やはり私は人前に出る生き方をしてて、その私を支えてくれてる人がいる。
noteを読んでくれてる人がいる。
私が死んでしまえば、その人たちも遺してしまうことになる。
確かに人気商売だから、私に人気がなくなれば去ってしまう可能性も高い。
今までだって離れていく人もいるだろうし、これから興味を持ってくれる人もいるかもしれない。
それでいい。
でも、今の生きているうちに伝えなきゃいけないこと。
それを今から言葉にします。
そしてそれは、ゴメンだけど有料とさせてもらいます。
理由は、さらけ出し過ぎてて恥ずかしいからです。
そして、今回の有料部分は長くはないです。シンプル。

もし私が死んだとして
今現在、私の生き方に興味を持ってくれてる人へ。

ここから先は

661字

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?