イベントで意識する“境界線”の話

※最初に断わっておくが、これは私の持論であり、私はこれをここ2年間実現できていない。

dp96sとも、Alius ibiとも、その他ミステリーに関する団体活動とも、全く乖離した私の一人話だと思ってほしい。あるいは、私自身がミステリーを始めた起源を起点とした、私の空想の話。各団体において私はメンバーの1人でしかなく、私はあくまで主催や団体の求めるものを作る手伝いをしている。各団体の活動はここで言っている私のことを実現するための活動ではなく、私がそれぞれの団体あるいは主宰に対して応援したい気持ちで手伝っているスタンスの活動であることを、前提にしていただきたい。

私自身、趣味のテーマはたぶん『境界線』で、リアルミステリーって

「日常と非日常の境界線を曖昧にすること」

「安寧と波乱の境界線を無くすこと」とか、

「参加者と演者の境界がない」

「探偵と殺人者は境界線なく、ただの人間である」とか、

境界線をなるべく透明にしようという試みが重要だと思っている。

一方で、

「一般人と国家権力との境界線」とか、

「探偵と犯人の境界線」とか、

そういう明らかに越えられないものをあからさまに見せつけつというのも、一つの要素だと思っている。

そうなった時に、現実と非現実の境界は、私にとって喜怒哀楽の「喜楽」と「怒哀」の関係だと最近考えるようになった。はっきり境界線のあるものだけれど、人生という平面ではどちらも平等にあるもの。

それが、喜怒哀楽。

リアルミステリーで私が提供したいのは、確かに等身大の人間ドラマでありながら、その中で圧倒的に「怒哀」に触れる機会というのを提供したいのである。

まあ毎度同じことを言っているのは自覚しているが、私は殺人事件を遊びとして提供することには反対派なのだ。厳密には、人が死んでいる状態を嬉々として扱う類は嫌い。事件とはそれぞれの関係者がそこに至るまでのドラマがあり、被害者にもその良し悪しはあるものの人生があり、被害者が亡くなったことによってある人の人生が大きく変わってしまったということがある。それらを無視して「事件現場という空間にワクワクする」というのにはどうも腹が立つというか、変な義憤に襲われる。

だから、私は自分の作るリアルミステリーの現場は必要以上にリアルである必要があり、一瞬でも提供している事件に対して「何らかの抵抗感」に見舞われればいいと考えている。それが「現実と非現実の境界線」を超える瞬間で、それはもっとも短期的に、自分がその被害者や犯人に対して触れ合っていた数分の人生ドラマを描いている、という現実感を感じている瞬間なのだと思っている。

本当に、娯楽向けではない考えかをしていることには気づいている…。

当然、ビジュアルばかりではなく、人物の背景や、その人物の態度そのものに作り込みがされているのも必要だと思う。これはリアルミステリーに限らず、読み物でも、その他のジャンルのミステリーイベントでもそうだ。そして一方で、その背景や態度を現実にいる参加者に溶け込ませなければならない。それもやはり、「現実と非現実の境界線」を超えさせる、あるいはなるべく低くて越えやすくさせる工夫が必要ということである。じゃあその、現場のリアリティから境界線を越えていくのが「何らかの抵抗感」であるなら、このドラマに入り込ませることで境界線を越えた、という判断をどこにするか。それが、「怒哀」なのだ。

以前、少なくとも1年前までは事件に対する「恐怖心」が境界線の実線だと思っていた。死体に対する気持ち悪さとは、自分の死に対する恐怖心の変換というのを本で読んだ。現場をリアルにすれば「恐怖心」は作れる。それで犯人探しのために人間ドラマを追っていけば、疑心暗鬼の中から現実的に一緒にいた人が犯人であることに気付かされて、その閃きがたぶん「現実と非現実の境界線」を超えることだと思っていた。

違う。

少なくとも私がイベントで人間ドラマというリアルとの地続きを求めているのであれば、そもそも作らなければならないのは「現実と非現実の境界線」の低さではなく、「当事者と外野の境界線」を作ることなのだ。考え方は簡単だ。そもそもイベントという名において参加している参加者が、おとなしく事件に対して恐怖心を抱くわけがない。抱くのは、被害者や犯人に対する数分のコミュニケーションで培われたちっぽけな同情だ。頑張って数時間話した人間相手で、あるいは知り合いだったとしてもそのイベントに来ている時点で心の構えがあるのに一瞬のショックから恐怖心も疑心暗鬼もない。

「当事者と外野の境界線」

今まで分からなかったわけではなかったが、なんとなく今回の僕らの探偵ファイル4でのイベントで確信をした気がする。後は、終わった次の日に持論を喋り捲って、ゆっくり一夜かけて考えて行き付いた気もする。例えば演者がNPCになったとして、NPCは参加者とは確かに全く隔たれた境界線が存在する。しかし、たぶん共通のゲームに立つ存在として壁はなく、むしろ壁をなくすためNPCという存在がいるのだから話が違う。リアルミステリーにはNPCはいない。演者も参加者の一人として溶け込んでいる。それが、今まで私の考えてた「現実(参加者)と非現実(演者)の境界線」がない、ということだった。参加者だろうが演者だろうが、刺せば死ぬし、刺したら逮捕される。誰でも犯人にも被害者にもなりえるということを見せることが、現実と非現実の地続きの証拠の全てだと思っていた。

行き付いた結論は、そもそも参加者と演者、という視点でいることが間違っているということだった。いや、実際には「現実(参加者)と非現実(演者)の境界線」がない、ということは必要だ。しかし、それ以上に現実であることとして見せなければならないことがある。それが、事件の当事者であるかそうでないかだ。

そして事件の当事者かそうでないかの熱量の差は、圧倒的に「怒哀」で決まる。だって今までのことをよく考えると、当事者だろうがなんだろうが淡々とことは成されていた。例え犯人でも多少の動揺を見せるのは難しいから普通にさせていたし、被害者側の関係者の演者に、心情まで指定することはなかった。

違う、彼らは実際はNPCじゃない。それではNPCと同じだ。

本当に事件に遭遇して、取り乱さない人間がいるか?頑なになる人間がいるか?いつまでも笑顔で対応できる人間がいるか?もしも犯人がちょっと先天的に感情的の波がない人間だとしても、それはそれ相応の反応があるはず。

なぜかこれに行き付いた時に、私は自分がトンデモナイ、口先だけの偉そうにしている人間な気がした。よくもまあ、リアルミステリーで現実を描きたいなんて言ってきたものだと。

「怒哀」はフィクションだ。

日常で求めるものではないし、もし遭遇しても大体は感情のやり場があるものだ。事件に遭えば違う。状況自体から、もう、やり場がない。被害者側の人間はその他の人が分かりあえるよりも彼方の悲しみを抱えるし、犯人側の人間はその他の人が分かり合えるよりも彼方の怒りやそれこそ悲しみ、狂気の哀を抱えている。簡単に立ち入れない感情を前に、娯楽としてやりずらさはあるだろうが、それを乗り越えて話を聞くのが「現実と非現実の境界線」を超えることなのではないか、と。要は、参加者がフィクションである「怒哀」を現実として受け止めなければならない、ということ。

ネタバレになるから詳しく書けないが、今回の僕探4はそれが顕著にあった。きっと私ではない私にいろんな意味で慣れない人がいただろう。それはそうだ、そうしたのだから。明らかに状況で態度が変わったのは、私がそういう背景の人間だからだ。その背景に行き着いた人は、実はいた。気付いていたかは知らない。ただ彼らを見ている限りでは、私は彼が最も私が求めている真実の導き方をしていると思った。


わーっと思いついたことを文字に落とすが、どうも結論を繰り返して言っているので文章の締りが決まらない。でもこうやって時々文字に落として気付く、変化が自分でも楽しい。楽しいし、気付いたからにはどうにかしたい。

「当事者と外野の境界線」を作ることは、明確にある時点で「参加者と演者の境界線」を作ることになる。それが今まで自分の考えていたことに反しないか?という懸念はある。上手くバランスを取れる方法を見つけていくしかない。

またここで読み返しても、全く娯楽性…”楽しい”を追求しない作りである。私はどこに向かっているんだろうか(笑)ただひたすらに人間というものを知りたくて、人間観察ではその人の外見しか分からない。さすがにジグソーみたいなことはできないからミステリーを作っている。そういう感じかもしれない。

しかし、私にはこれらを作りたい、という感情の前に越えなければならない境界線がある。「凡人と天才の境界線」どうあがいてもストーリーが作れない、という越えられないところ。壁、ではなく境界線、というところに、まだ自分はひょっとして書けるのではないかと思っているところが自分自身で苦しい。

ストーリーが作れないのに、ここまで書いてきたことができるわけがないといわれれば、答えはNOだ。できる。許されるなら、どんな物語でも私の考えるところまでは引き上げられる。その自信は無駄にある。

でも、それは自分のエゴだ。物語を作っている人の物語を壊すことになる。今でも…自分の行動が行き過ぎたと気付く度に後悔する。だから、「最終判断は主宰権限」、これは絶対だ。そういう意味では殆ど…自分の描きたいことの実現は…自分でどうにかしない限り難しい。

仕事とは別に、全くサイコな事考えているよなぁと自分でも思う。そろそろ帰ろうかと、今PCの画面を消して席を立ちあがれば、ただの下っ端コンサル女子だ。次のイベントが始まらなければ、そのまま何もない。

果たしてそのまま何もない、でいいのか?とりあえず今回はここまで書いて、ちょっと考えて、また歩き出そ。

※本記述は仕事しながら、移動しながら、家で半分寝ながら書いています。

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