行動展示は、誰がいるのか気付くための『課題』です。

注意:本文章はkiki君が企画した『行動展示』という作品について、いろんな人が言及するという企画、の1つの成果物です。私以外に24人くらい『行動展示』について書いた人たちがいました。どうやらその全部を以下で読むことができるようです。
https://booth.pm/ja/items/879318
https://adventar.org/calendars/2667

==以下、本文===

行動展示そのものの説明は飽きてきていると思うので、リンクだけ貼っておきます。まだ拝見した覚えがない、という場合はお目通しください。
https://note.mu/kaisetsu/n/n0ee16c75cc10

それで。

連想ゲームで考えるのが好きな私が、ただひたすらに文章をつなげていってるので、これを読むのは正直大変です。ですが、読む場合は連想ゲームなので上から読んでいってください。なお時間がなかったので、まとめ、はできそうにありませんでした。読む気が失せた場合はタイトルだけでご満足とご容赦をください。

では。私は言葉数が多い割りに中身のある発言をしないので、気をつけてくださいね。拙文乱筆失礼。

と、

今文字にして書いたわけですが、一体誰がこの文章を読むというんでしょう。それはもちろん、リンクを押して、この、ここ、ここを今目で追っている貴方を想定してこの文章はここに表れているわけです。でも私がキーボードを叩いている最中、一定の読者がいるだろうことを想定できていても、誰が読むかは分かりません。でも、読まれることになるでしょう。

何が言いたいか、というと、見られるということとはそういうことだということです。

話、変えます。

役者をしていると、観客からはガン見されます。普通にすごしていたらこんなにガン見されることはありません。私が逆に観客になった時は、それこそ一挙手一投足見てます。台詞を言っていない瞬間の方も、執拗なほどガン見しています。ふと、なぜガン見されているのか、ガン見していいのか、考えたことはありますか。演劇なんだから見るのは当たり前じゃないかと思うかもしれませんが、それは見ていいだけでガン見していいとは話が違うと思いますね。まあ屁理屈はこのくらいにして考えてみると、少なくとも2つのパターンがあるかなと思います。「お互いに見えないから」と「(見えないけど世界の)間仕切りの向こうだから」。

「お互いに見えないから」は、実際に見えているのにこういう言い方がしっくりするから面白いですね。はっきりとした言い方をすれば、舞台上と客席は世界が違うので、見えない(ことになっている)んですよ。パラレルワールドが量子番号の1つのズレだけで発生しているように、舞台上では観客席のあるところには海が広がっていて、観客にとって舞台上は今ここにない空間が再現されている状態で。うん、これもう「(見えないけど世界の)間仕切りの向こうだから」と同じですよね。舞台と観客席の間に何らかの狭間が存在していて、そこの区切りで世界が変わっていて、マジックミラーのように観客席側だけ舞台上の世界をのぞける感じ。これはもう「お互いに見えないから」と同じでしょう、じゃあ詰るところ、ガン見していい理由は1つですね。

「お互いに見えないから」

このワードでぱっと思いつくのが、社会学の『儀礼的無関心』という奴です。同じ空間に居合わせる大多数が、目を合わせようが何かを見ようが見なかったことにする、という大人の事情を汲もうね的な、暗黙のうちに要求されている礼儀のことです。あまり聞かれないのですが、実はこれには『儀礼的無関心違反』というのがありまして。簡単にいうと、ガン見している時にガン見している相手と目が合っちゃって「あ、やべぇ!」って思った時、違反は成立します。「あ、やべぇ!」って思わなければ、とりあえず儀礼的無関心違反にはなりません。変な感じ?そうですよね、皆さんが頑張って守っている刑法では、「とりあえず刑罰があるって知らなくてもやったら犯罪」ということになってますから、そういう感覚からズレますよね。・・・いいえ、ズレていませんよ。だまされちゃいけません。刑法には他の項に「でも、自分の行動が良く分からないまま悪いことをした時は、違反が何か分からないだろうから、罰するより救済しようず(心神喪失・心神耗弱)」というのがあります。極論、この世は本人が行動の自覚を持って始めて罪が成立するようになっているのです。話、ずれていますか?では演劇のガン見に話を戻しましょう。

「お互いに見えないから」、考え直したら違いましたね。本当は「お互いの目線が合わないから」、観客はガン見できるんです。実際に目線は合いますよ。しかしそうなっても、「あ、やべぇ!」ってな(っちゃう人はいると思いますけど、なっちゃった後に気付きますよね、な)らなくていいんです。おーけー、舞台は目線が合わない空間。じゃあ、舞台でも目線が合う空間にしたら気まずくなるのか?なりますかね?私はならない気がするんですよ。だって役者は見られることが仕事だから。さっきから元も子もないこと言いやがってって思われている気がしないでもないですが、これが唯の一般人に置き換えてみてくださいよ。舞台上に一般人が居て、観客席にいる貴方と目が合う。・・・あ、駄目だ。これはガン見して、「あの人何やってるんだろ」と思っちゃうやつだ。違和感を作っている側が社会通念からズレている(礼儀がない)ことになると、そういう人は無条件でガン見していいんですよ。

『衆人環視』

そうそう、この無条件のガン見で思い浮かぶのが、この単語ですかね。儀礼的無関心と対極(過言)にあるもので、簡単に言えば犯罪抑止ポスターの「お前を見ているぞ」って奴です。互いに、監視とまではいかないけども意識しているんだぞと。悪いことを隠れてしていても、誰かがお前をガン見しているぞ・・・と。逆に見る側は、悪いことが目に付くのは仕方ないし、仕方ないからそれは別に見てもいいことになってるんです。その犯罪現場をガン見していても咎められません。ただし、見たら通報しなければならない義務が発生します。通報しないと、それは咎められますよ。見ていた、ということが証明された場合に限って。

衆人環視の面白いところは、誰もが見ているっていう事実ではなくて、誰もが見ている中で誰かが動き出さなければ(なんとなくみんな儀礼的無関心すれば)、互いに「見ていなかった」が成立してしまう。見ていたことが証明しにくくなる。この場合は、『同調行動』の意味合いが強そうだけどね。あるいは、動き出した人間が正義とならず面倒事に巻き込まれ、その結果動き出した人間が違和感として扱われてガン見されるか・・・というのが嫌で黙認する同調行動になるか・・・『心理的報酬』から考えてメリットが少ないから動き出せない・・・とか。

シュウジンカンシって音だけ聞いていると「囚人監視」=『パノプティコン』の気分ですね。知ってますか、パノプティコン。もともとは犯罪者の自立的更生を促すために作られた基地外のような牢獄で、囚人同士が互いに見張っていられるように円形をしているんです。自分の牢獄の正面には必ず誰かの牢獄の正面が存在している。囚人による、囚人のための囚人監視。

はぁ、気付きましたよ。舞台はガン見しても悪いことにはなりませんが、何となく目が合うと悪い気がしてしまう。一方で、目が合ってもガン見オーケーで悪い気もあまり起きないのは、牢の中と外ですよ。その境目は「(はっきり見えるけど立場の)間仕切りの向こうだから」。あ、なんか戻ってきましたね。無理やりですかね?

牢屋の中と外は間仕切りがあって、そもそも向こうは悪い前提なので見ても大丈夫という論が成立しますね。更に、向こうは礼儀がないから、こちらも見ていて大丈夫。そして何より、見ている側は間仕切りによって完全に安全。見られている側が見るなと騒いだところで、(相手が一生こちらの顔を覚えているような事態にならなければ)身に危険は及ばない。コワイ物知らず。とすれば、気も大きくなりますな。こちらは何も咎められないし、害も受けませんから、いつも矮小に生きている人ほど見栄を張ったりするでしょう。ここで安全だから何してもいいって考えに至った人は、まあ人間として問題があるとは思いますけどね。

”思います”けどね。

えぇ、ここで牢の中と外での関係の話に終始するなら、そういう関係ですねで終わりますが、私はその更に外から見ているので話は続きます。見る見られるの議論をしている人間は、これも当たり前に聞こえるかもしれませんが、彼らとは別の人間なのです。で、彼らについて外側から見る立場を確保してガン見する。見る・・・立場、あれ、彼らと目があったら多分なんか言われますよね?でも、なんか別にガン見していてもいい気がしている・・・ぞ。

私が見ている、この牢屋越しの誰か・・・見る/見られる関係の彼らは見る/見られるという二者間のやり取りに徹している以上は他が見えないはずです(ただし、これはここまでに語っている見る人の人数が一人を想定しているので二者間って感じです。まあしかし、この見る側の人数が変わっても、見る/見られるの関係はその関係数のnが増えるだけ=二者間のやりとりのnが増えるだけ)。逆に私からしたら、地続きにはいるんですがね、あの二人の空間は私にとって二人の世界を見せ付けられている、「舞台」のような見世物を漠然と見ているっていう状態のようです。しかもその様子が変だと感じたならガン見しちゃう。でも、目が合ったらなんとなく気まずいですねぇ、私は。観客だからね。

これと似ているのが、例えばSNSでリプの応酬を眺めているフォロワーの気分。全員画面越しの安全圏。リプの応酬をしている二人は互いのやり取りしか見えていない。けども、こちらは見ていますよ・・・と。これ、見ていた応酬の中に突然、「見ているな」と書かれたらドキッとしますね。目線合っちゃった気分になりますね。

そういえば、『スタニウラフスキー・システム』という、演劇をちゃんと体系立ててまとめられたものがあって、その中には『Circles of Attention』というのがあります。日本語訳すると、注意の圏(範囲)。簡単にいえば・・・大勢いる中でも独り言を言っている時には1人事に、逆に役者は1人しかいないのに見えない誰かや見えない大勢に向けて呼びかけたいなら見えない他人も含めて、演技をする。コミュニケーションの相手によって、やり取りの飛ばし方変えて見せる、その際の考え方の示唆みたいな話が注意の圏です。

で、この文章は第二者の貴方に宛てて書いています。

話自体一貫していますよ、途中で話題を変えはしましたけども。これを読んでいるのが貴方”個人”だと特定する術はありませんが、貴方を特定の読者と想定して話しかけることは出来るのです。そもそもこの長ったらしい語り口調が、誰のためだと思っているんですか。え?まあ、私のためですね。

誰かに見られているという想定で、字面でしかないのですが演技しています。まるで、何とでもないようにね。文字を打っている最中は、一人ぼっちなんですよ。一人で、独り言を打っている。でも、これを誰かが読むことは想定できているから、独り言だけど誰かがいるような口調で書いている。で、実際今貴方が読んでいる。ばんざーい、ありがとう。そしておめでとう。

『世界五分前仮説』って

突然だけど、知ってます?哲学の問題で、世界は今から5分前に出来たという話です。一応だれもこれを反証できない状態で、例えば私はこの文章を書くのに筆を止めた時間も含めて全部で3時間くらいかかっている。でも、それは結果の話であって、5分前に3時間かかっていたものが登場していたのなら、私の記憶は3時間分つくられてしまっているし、そうではないという証拠はない。うん、突然ごめんね。まあ覚えておいてくれればイイと思う。

さて。じゃあこの「行動展示」の考察の結論はなんだったのか?ということなんだけども、私も良く分からない。とりあえず衒学趣味に合わせてこの文章を書いたわけで、そろそろ筆を下ろしたい。から、まぁ、ちょっと考察っぽいものを…あぁ、この文章長いから頭の方に書いておく。それで、もしこの文章に見覚えがあるのであれば、貴方はたぶん大丈夫。大丈夫?うん、見てきたものは間違いなく。最初から疑いそうになるなら、『世界五分前仮説』でも思い出して。ちなみにこの仮説、断続的に更新される世界であるという反証もできないタチの悪さだから、あまり深く考えては駄目ね。

じゃあ、はい、もうここも飽き
次の部屋に生
よろしく、


=====

【これを書いたサンプル】

小池 ウラン(@Uran_Bird
人生とは何かを説いて飯を食ってますが、休日は他人に化けたり作品と称して法に楯突いたりして生きています。衒学主義。左脳の機能が落ちている。

意訳:
倫理や法律に関するコンサルの仕事をしながら、休日は舞台役者やミステリーイベントの制作をしています。やたら、こむずかしい事を知っていたい人。論理のチカラがやばい(小並感)

コメント:
最後整合性が取れてないかもしれないという出来。でも、連想している最中は楽しくて、書ききれていない話がいっぱいあって、わーって感じ。もし全部読んだ方がいたら、罵詈雑言の類を1つ以上掲載の上、感想と称して私を言葉で叩き潰してください。大丈夫、ドMです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?