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藤原隆家のこと

予想したよりも一昨日の記事を読んでいただけた人数が多かったので、本日は省略した二つの話について触れてみます。

二つのどちらも中関白・藤原道隆の次男、やんちゃ坊主こと体育会系の藤原隆家にまつわる話になります。
この隆家という人物は、実は葉室麟先生の「刀伊入寇」を読むまで、個人的には全然知らなかった救国の英雄なのです。

恐らくは正暦五年(994年)頃に起こった事件だと思うのですが、ちょっとした言い争いで花山法皇が「幾らお隆家が大口叩いてみせても、わしがちょっと命ずればお前ごとき我が屋敷の門前を通ることすら出来まいよ」とでも言ったらしいのです(現代人にはこういう売り言葉の意味も良く分かりませんが)。
「よし、その勝負もらいうけた!」とばかりに隆家はノリノリで、二人して期日を決めます。
これが994年だと思うのは、隆家が中納言に昇進して公卿となるので、法皇と話す機会も出来るようになったのではないか、と考えるからです。

隆家は凄く派手に着飾って、牛車から身を乗り出さんばかりにして五~六十人もの従者達を伴って出発。
一方の花山法皇は屋敷の四方に七~八十人の荒くれを集めて待ち受けています。

屋敷に近づき、隆家は予想外に大がかりな法皇側の準備に驚きます。
周囲を調べさせますが、手薄な路地も見つからないため「こいつは偉いことになった」と今更ながら後悔することに。

それでも勝負は勝負。
覚悟を決めると勘解由小路を東に牛車を進め、「いざ門前に向かわん」と東洞院大路へ左折させます。
それとばかりに花山院の周囲を固める荒くれ共が他の路地からも駆けつけて集まり出します。
その勢いに「これはいかん」とばかりに隆家は牛車を急転回させて、そそくさと御簾を降ろし引き返すしかありません。
その姿に花山院に集まった群衆はどっと笑った、という話です。

この自分の面目を潰した相手、花山法皇が兄・伊周の恋敵だと?と言うのが伊周から愚痴を聞かされた時の隆家の感想だったでしょうか。
ここで「二年前の仇討ち」とばかりに暴走したのが「長徳の変」ということになります。

さて、その後の兄弟は左遷されて地方に飛ばされます。
何年かして許されて都に戻ることになりますが、伊周は程なくして父と同じ飲水病を発病してしまいます。
そうして亡くなってしまうのですが、隆家の方は元気です。
とは言え眼病を患うようになり、療養を兼ねる意味もあって太宰府権帥を自ら希望します。

隆家が太宰府にいた時に「刀伊の入寇」が起こるのです。
寛仁三年(1019年)三月二十七日に女真族が対馬と壱岐を襲撃します。
そして、四月九日に博多が襲撃されます。
迎え撃つのは太宰権帥・藤原隆家。地元の豪族の協力を取り付け、見事に撃退に成功するのです。

もしも隆家以外の人物が指揮官であったなら、朝廷の許可が下りるまで手を出せず、女真族による被害が拡大したでしょう。北九州が占領されてしまう事態になったかも知れません。恐らくは地元の豪族が勝手に迎撃を始め、そうなれば勝っても負けても北九州に再び独立の機運が生まれ、磐井の乱の二の舞になった可能性もあります。

道長を始めとした朝廷の意向など構わずに、独自の判断で決断できる隆家が太宰府にいたというのは、まさに天の配剤とでも言いましょうか、こんな幸運があるんですね・・・・・・・

そう考えると、隆家と花山上皇の口争いに始まる「長徳の変」も、全てがこの日本への歴史的災いに準備するために必要で仕組まれたことなのかしら、とさえ考えてしまいます。
偶然と言えば、偶然なのでしょうが・・・・・・

こういう話を調べていると、平安京の中の町並みや各自の屋敷がどこになったのかとか気になる訳です。
文献的史料で事件等のことはもちろん集めていますが、それ以外にも屋敷がどこにあったのかなどはそうした史料本では触れていない場合も多いです。
あと、服装とかも説明を字面で追っても分からない・・・・・・・
専門家には常識でも、私は知らないのでいろいろと買い求めます。

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京都に行って確かめてしまいたくなることもありますが、こういう情勢ですからね。

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