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雨の中

雨・・・

しとしとと雨がふる
特に激しい雨ではないが、朝から続く雨

季節の変わり目には、よく雨がふるという
この雨が過ぎていけば、暑い夏がやってくるのだろうか・・・

こんな雨を見ていると、何故か思い出す。
あの春の終わりの日の事を

その日、僕は雨の中、傘をさして歩いていた。
少し離れた雑貨屋まで、日用品を買いに
雨の中、買い物に行くのは億劫(おっくう)ではあったが、
残念ながら、今日は日曜日、
明日からまた忙しい日々が始まる僕には、今日くらいしか時間がなかった。

くすんだ気持ちで道を歩いていると、突然、僕は、横から声を掛けられた。

「あの、すみません」

僕に声を掛けて来た人物は、小柄で腰の曲がった女性だった。
その女性は、軒下で雨を避けながら、何やら困っている様子だった。

「はい、どうかしましたか?」

「申し訳ありません、真田病院はどこかご存じですか?」

「真田病院ですか?」

見ると、女性は複数の荷物も持っていた。
お見舞いだろうか・・・

「いえ、真田病院という名前は聞いたことないですね」

「そうですか・・・」

女性はかなり落胆した様子だった。
僕は少し心配になり

「何かあったのですか?」
と女性に聞き返した

「実は、真田病院に行こうと思っているのですが、場所が分からなくなってしまいまして・・・
病院へ電話をして場所を聞いたのですが、それでもよく分からないのです」

女性は、石塚という駅で降りて、ここまで歩いて来たが、目的の病院が見当たらずに落胆していたという。
今日は、休日で、しかも雨の為、人通りも少なく、なんとも困り果てていたところに、僕が通りがかったという事だった。

「そうですか・・・何かメモのようなものはお持ちですか?」

「はい、これなのですが・・・」

女性は申し訳なさそうに僕にメモを渡した。
それには、病院の住所と電話番号、そして、病院に辿り着くまでの、簡単な道しるべのようなものが書かれていた。
だが、女性が何度も雨の中で見直していたのだろう、そのメモは雫に濡れて、多くの文字が滲(にじ)んでしまっていた。
これだけでも女性の落胆ぶりが伺える。

だが、滲んでいながらも、何とか電話番号だけは読める。
僕は近くの公衆電話で病院に電話をかけて、場所と簡単な行き方を聞いた。

病院の説明によると、真田病院の場所は、石塚駅ではなく、石巻駅だった。
石塚駅と石巻駅は隣の駅
恐らく女性は、一つ前の駅で降りてしまったようだった。

「どうやら、真田病院というのは、となりの駅のようですよ」

僕は、電話での内容を女性に伝えた。

「そうだったのですか・・・」

女性が益々落胆したのが分かる。

「どうしますか? もう一度、石塚駅にもどって・・」

「いえ、もうこのまま、石巻駅まで歩く事にします
わざわざ聞いて下さり、ありがとうございました」

女性はそう言って荷物を持ち上げた

「ちょっと待ってください」

今、女性と僕のいる場所は、石塚駅から石巻駅へ向かって少し歩いた場所。
ここから石塚駅に戻るよりも、石巻駅へ歩くという選択は、あっていいと思う。
また、雨ではあるが、初老の女性でも歩けない距離ではない。

しかし、女性のメモはもう読めるような代物ではない。
そして僕は、病院への行き方を知っている。
そしておそらく、女性に病院の場所を伝えたとしても、メモ無しで辿り着けるとは思えない。
僕も女性も書くものを持っていない

「一緒に行きましょう」

僕は女性にそう言った

「それは、申し訳ない事です」

「僕の事なら、心配しないで下さい。
それに、お婆さんは病院の場所が分からないでしょ?
僕は電話で聞いて知っています。
ですから、一緒に行きましょう」

「そうですか・・・それでは、お世話になります」

そして、僕と女性は真田病院へ向けて歩き出した。

「荷物を一つお持ちしますよ」

「いえいえ、いけません、そんな事は」

「僕は手ぶらですから、一つ持たせてください。
それに、このままだと、ますます荷物が濡れてしまいますよ」

女性は一息考えてから

「そうですか、それではお願いいたします」

そう言って、女性は僕に荷物を持たせてくれた
そして、また二人は歩き始める

しとしとと降る雨は止む気配がない

「本当に申し訳ない、ありがとうございます」

女性は一息つく度に、僕にお礼をいう
僕はそれを忍びなく感じていた

「真田病院へは、どなたかのお見舞いに行かれるのですか?」

何気ない一言だった。
忍びなさに、何か話題を変えようとしただけの言葉だった

「そうです、友達のお見舞いに」

「お友達ですか」

「ええ、さっちゃんとは、もう50年来の付き合いでしょうか」

「50年ですか」

「ええ、そうなんです」

そういうと、女性は少しづつ自分の事を話し始めた
時折、雨の音でかき消されてしまうようなくらいの声で

「私は信州の片田舎に住んでおったのですが、戦争に夫を取られてしまいまして、
結婚して直ぐでしたので、子供もいなかったものですから、独り身となってしまいました。」

「夫が田畑を持っておったのですが、女一人では何ともならんだろうと言われて、本家に買い取りという形で取られてしまったんですよ。
でも、本当に私一人では、何ともなりませんでしたから、仕方のない事だったんです」

雨の中で、女性は歩きながら話を続けた

「買い取りの時に、お金を頂いたのですが、それと同時に奉公先を紹介されましてね、
それで、この土地に出てきたんですよ」

「そうだったんですか」

「ええ、
そこの旦那様が、奥様を娶(めと)られたというので、女中として家の中の仕事と、奥様のお世話をして欲しいという事でした。
そこで一緒に働いていたのが、さっちゃんなんですよ」

「さっちゃん」は、幸枝(さちえ)さんと言うらしい。
幸枝さんも田舎から出てきた独り身で、歳も近かった事もあり、とても仲良くしていたという事だった。

「旦那様はお優しい方だったんですが、奥様にはよくいびられました。
でも、奥様には悪気はなかったんですよ。
世間知らずな方でしてね、無邪気な方でした。
それだから、酷い事をされたり、心無い言葉を言われたりね」

「それは大変でしたね」

「いえいえ、
そりゃ私もさっちゃんも、よく泣いてましたよ。
でも、そんな事は、私達の時代では、大した事ではないんですよ。
旦那様のご厚意で、私もさっちゃんも、小さいですが、敷地の中の離(はな)れをあてがって頂きましてね。
それだけでも、幸せな方なのではないですかね」

雨はまだ降り続いている
ふと横を見ると、女性は足元を見ながら歩いていた。
女性の横顔には、苦労を現したような沢山のしわがあった。

「時折、奥様がお菓子を頂くと、一緒に食べようと言って下さいましてね
さっちゃんと三人で、よくお茶を飲みました。
奥様は本当に無邪気な方で、良く笑う可愛らしい方なんです」

「何度か、私にもさっちゃんにも縁談の話がありましたが、
奥様が私達を離してくれませんでしたので、いつも破談になっていたんですよ。
そういう所は、困った方でしたね」

僕には言葉がなかった
雨の中、歩きながら、ただ女性の話を聞いていた。

「年を取って、お暇を頂いてからも、離れにそのまま住んでもいいと、旦那様が言って下さいましてね。
今でも、そこに住まわせて頂いているんですよ」

「そうですか、それは良かったですね」

「ええ、
有難い話です。
旦那様はもう亡くなられてしまいましたが、奥様はまだご健在でしてね、
時折、お手伝いを仰せつかったりするんですよ。
年寄りのいい暇つぶしになります。
奥様は、いつまで経っても無邪気な方で、本当に羨ましい」

女性の話を聞きながら
私が少し苦笑いをした時

「今日も私がさっちゃんのお見舞いに行くと言ったら、大そうなお菓子を用意して下さいましてね、
どうせこれが最後だろうから持って行きなさいって」

「え?」
僕は女性の言った最後の言葉が引っ掛かった

「ええ、そうなんですよ。
さっちゃんは、肺を病(や)んでましてね、もう長くは無さそうなんです」

「そうですか・・・」
雨の中で僕は呟くようにそう言った
その言葉しか出て来なかった

「私もね、さっちゃんと会えるのは、もうこれが最後だろうと思っているんですよ。
私にはさっちゃんしか友達が居ませんので、寂しくなります」

足元を見つめる女性の横顔が少し悲し気に見えた
雨の中、女性の心情を思い量り僕は戸惑っていた
そんな僕の戸惑いに気づいたのか、女性が口調を変えて言った

「すみませんでした、こんな話を聞かせてしまって、
詰まらなかったでしょ」

女性が僕の顔を見ながら言う
しわの多い女性の顔に、少しの戸惑いを重ねながら。

「さっちゃんの事があって、いろいろ思い出してしまいました」
ごめんなさいね」

「いえ、そんな事はありませんよ」

女性の言葉に、そう返してはみたが、
それから、女性は黙って歩いた。
僕も女性にかける言葉を見つけられず、黙って歩くほかはなかった。

そして、沈黙の時間が少し流れた頃、僕達は真田病院に着いた。

病院の玄関先で、女性は僕に何度も丁寧に頭を下げて、お礼を言った後、
病室のある棟(むね)へと歩き始めた

病棟へ向かう彼女の横顔には、古い友人との再会に向けた、とても美しい笑みがあった
これが最後になるだろう対面に、あれほど美しい笑顔が出来るものなのだろうか

そう思うと同時に、僕の中に湧き上がる想いがあった
彼女の話を聞いて、少しでも可哀想だと思った自分は、どれほど浅はかで、どれほど高慢(こうまん)で、愚(おろ)かだったろうか。
僕は彼女の何を知ったというのか、
人の幸せを、自分に推し量れるとでも思っていたのだろうか。

帰りの道を辿(たど)る雨の中、彼女の笑顔と苦い想いが何度も胸の中を駆け巡った。
その時から、僕の記憶の中には、雨と共に彼女がいる。

もうどれだけ経ったのだろうか

そして今日も思い出す
雨の中で僕は

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