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良き身体感覚

「良き身体感覚」をベースとして、ひとつひとつ丁寧に地道に問題に取り組んでいく必要がある。


「良き身体感覚」は健康の上に成り立つ。健康は絶対である。

「良き身体感覚」は「ただ感じる」ということを大切にする。そして、「良き身体感覚」は「すべてを楽しもうとする」という意思の元に生じる。そこまで楽しめなくても「集中により冷静に問題を解決する」になれば良い気がする。

もちろん、これは理想論であり、実際は大幅に違う。が、理想としてこれを持っておくことに意味がある。まずは良き身体感覚を目指す。その指向のおかげで、なるべく冷静であろうとできる。ストレスを認知しやすくなる。

「すべてを楽しもうとする」とは「興味を持とうとする」「苦しみをどう楽しみに変換するかを考える」という意思である。



不安や不快、つまり「悪しき身体感覚」をベースにした判断は失敗しやすい。

なので「良き身体感覚」をベースにして苦しみを楽しみに変換したり、冷静に対処できるようにスッと問題の処理をするモードに移行するようにしていくことで、悪しき身体感覚の時の自分の反応のコントロールをしようとしている。良い状態の時に考え抜いて納得をしておくことで、悪い反応をなるべく避けようとしている。悪い反応をしてしまってもすぐに良き身体感覚に戻れれば、被害は最小限で抑えられる。


帰るべき場所がないと、ひたすらさまよいつづけることになる。安心できる家が必要だ。それが「良き身体感覚」という認知。認知上のホームベース。家に「いる」をどの状態でも達成できることを目指す。

「いる」は「本当の自己」。「本当の自己」とは「完全に満たされた状態」。原体験としては「子宮回帰」、その次が「母からの庇護」。その感覚がホームベース。


ホームベースをつくるためには他者が必要だ。深い関係の友達をつくること。誠実に話ができる相手や、ひたすら自分の話を聞いてくれる相手を見つけて、そこに自己を保存する。もし相手も同じくそれを望んでいるのであれば、相手を自分の中に保存する。深いところで繋がっている素晴らしい鏡になる。広く浅く友達をつくることも大切なんだろうが、深く狭く継続的に関係を深めていける友達の方が大切に思える。適切な距離感を保って、しかし時には踏み込んで、ケアとセラピーを行う。セラピーは必ずしも必要ではないかもしれない。しかし、深い関係の間柄では、セラピーは発生してしまうものである気がする。それをどちらかが望んでいればだが。

しかし、特定の人だけが居心地の良さを与えてくれる環境に依存するのは危険だ。なので、嫌いなことを克服して好きになっていく、もしくは緊張せずにローコストで問題を処理できるようになっていく必要がある。そのためには、嫌いなことをやったり嫌いな人と関わって、自分はそれのその人の何が嫌いなのか知り、好きになろうとすることで解決していく。いまはそう信じている。少しずつそうなってきている気がする。


「良き身体感覚」のためには他者が必要だと書いたが、他者以前に身体感覚をおろそかにして観念的になりがちな人間には「祈り」が必要である。

「祈り」は、身体感覚や観念を認知する他者としての自己を存在させることである。「祈り」とは、瞑想、黙想、マインドフルネス、そういった類の意味である。とは言ったものの、正直まだ僕は祈りについてよくわかっていない。語る言葉がないわけではないが、体系的に説明できるほどの完成系のパターンが存在していない。

わかっているのは以下である。まずは目を瞑り、立って姿勢を良くし、呼吸を整え、脱力すること。その時、緊張や不快があれば、全身をストレッチしたり回したりして脱力をうながすこと。何かを願うこともある。そもそも祈りとは何かを願うことらしい。最近は「生きたい」という言葉をベースにして始めることが多い。そうそう、僕は自分の名前を呼んで自分に挨拶をして始める。特定の神への信仰はないので、神はこの世界の全て、流れのことを指しているような気がする。

偶然システマのことを知ったので、システマの四原則を採用している。「呼吸」「脱力」「姿勢」「動きつづける」。前の3つの説明はすでに書いた。「動きつづける」の定義はまだ模索中かもしれない。そうだな、強いて言えば「特定の思考に捉われなくてもいい」という意識を持つことで、思考が流れていくことを抑制しないことだろうか。「居着き」というのがあり、確か合気道などの概念だったと思うが、特定の何かに囚われて適切な動きができないような執着や緊張を生まないようにするという感じの意味で解釈している。それが「動きつづける」の意味なのかもしれない。僕の祈りは、何もない状態から自分で意味を付け加えて育てていっているので、自分でもまだよくわからない。ひとまず「良き身体感覚」を目指して「呼吸」「脱力」「姿勢」「動きつづける」をやる、くらいの定義にしておこう。心地よくてずっとそうしてられるような感覚になれたなら、おそらくそれで良いんだろう。そして、何かを願い、何かを思い出しつづけることで、自分のホームベースを思い出していければ良いんだろう。曖昧な説明で申し訳ないが、こんな感じである。


まとめると「悪しき身体感覚において正しい判断をするためには、良き身体感覚を持続させる中で考え判断していくことが必要である。よって、良き身体感覚を深めていく必要がある(本当の自己、子宮回帰)。そのために、祈り、他人との関わりが重要である」という感じだろうか。

雑にまとめてみたが、いまだに祈りのことも良き身体感覚のこともそこまでよくわからない。圧倒的に経験と思考が足りない。動きつづけられる環境を整備して、毎日ひたすら動いて経験して思考していく必要がある。僕には生活が足りないので、まだこの程度しかわからない。が、ひとまずまとめることで、またここに戻って来れるようにした。これまで書いてきた祈りの話より具体的な話になったとは思う。

さあ、生活をやろう。人と関わり、手を動かし、それを誰かと共有しよう。起床RTAをやり、タスクを書き出し、目の前のタスクだけに集中してやり切ろう。そういう日常をつくりあげて、次に同じような記事を書く時にはもっと深い文章を一筆書きで書けるように。

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