才能についての記述①
僕は、どちらかと言うと天才だ。そう思っているのは、周りの人間が僕を囃し立てたからでもあるし、僕が「天才」に固執しているからだ。とはいえ僕の自己肯定のすべてがこのところに帰依しているから、それを改めようとは思わない、できない。しかし最近になって、「才能」というものに強い不信感を覚えるようになった。その不信感の発せられるところは以下のようなものである。
才能とはどこまでが才能か?性格・努力も才能ではないか?
才能とは「なぜかできる」ことである。それは恐ろしくないか?
才能は自分自身か?ならば感情は自分自身か?理性は?
※これらの考察はあくまで「叫び」にすぎず、誰の問題を解決することもできない。また僕がこれを書くのは不安などからであり、ところどころ論理的飛躍がみられるかもしれない。その旨を承知しておいてほしい。
1.才能とはどこまでが才能か?性格・努力も才能ではないか?
とりあえず、才能とは何かについて思索する。
まず、才能を「遺伝や幼少期の経験など誰もコントロールできないところで得た能力で、特異あるいは秀でているもの」と仮定したい。例えば、子供が初めてする後方倒立回転飛びを簡単に出来たら、それは特異な才能である。しかし大人に教えられてできるようになった場合、それは才能ではない。
はじめて水中に潜ったとき、誰よりも長く息を止めることのできる子供は、秀でている才能を持つ。しかし練習の結果その能力を得たなら、それは才能ではない。
ここまで考察して、才能の定義を少し修正する必要があることに気が付いた。才能とは「①努力の結果でなく②先天的あるいは無意識的に得た能力で③特異あるいは秀でているもの」と改めて定義したい。
さて、このように定義すると、問題が浮かび上がってくる。
才能とはどこまでが才能か?性格・努力も才能ではないか?
ということである。
世間には「優しい」「やる気がある」「明るい」「努力家」など、優れた性格というものがある。それらは明らかに「①努力の結果でなく②先天的・無意識的に得た能力で③秀でているもの」である。
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