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「ファントム・スレッド」ポール・トーマス・アンダーソン監督/「仕事と私、どっちが大事?」と詰め寄る若い女が好きな中年男のコメディ映画

2017年アメリカ映画。
ポール・トーマス・アンダーソン監督(以後PTA)は「エンターテインメント×映画芸術」を昇華できる、数少ない映像作家であり、個人的に最も好きな作家の一人で、「ファントム・スレッド」は待ちに待った新作である。

「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」では映画の面白さとまだ未開拓の地があると夢を見せてもらい、「パンチ・ドランク・ラブ」はベストオブラブコメとして10回以上繰り返し見ては「コメディ」なるものを勉強させてもらっている。

そして今回、「ファントム・スレッド」は自分の中でどんな存在になるのか?駄作でも嬉しいし、傑作だったら怖い。もう信奉者ゆえの混乱と期待とともに鑑賞した。

結果「すげーくだらない…」というのが作品に対する第一印象。
しかし、「すげーくだらなくて面白い」。
傑作ではないかもしれないが、面白いし学ぶところが沢山ある、非常に魅力的な作品であった。

監督・撮影・脚本:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:ダニエル・デイ=ルイス、ビッキー・クリープス、レスリー・マンビル
美術:マーク・ティルデスリー 衣装:マーク・ブリッジス
編集:ディラン・ティチェイナー 音楽:ジョニー・グリーンウッド

あらすじ
1950年代。オートクチュールの仕立て屋レイノルズは、英国ファッション界の中心的存在だった。そんなレイノルズはウェイトレスのアルマとの運命的な出会いを果たし、アルマをミューズとしてファッションの世界へと迎え入れる。しかし、アルマの存在がレイノルズの整然とした完璧な日常が変化をもたらしていく。(映画.com参照)

“男性vs女性”という前評判について
<男性の権力主義に否を唱え、女性が勝利する話>というような評をよく目にし「ジェンダーものか…」という理解で持って鑑賞した。
確かにそういう映画と言えるだろう。
しかし、男性性とか女性性の普遍的な話というより、<古典的な"男女の物語"の形式>を借りて「仕事中心の人」vs「家庭中心の人」を描いた超個人的な話に思えた。

男女の役割を決めつける行為は、非常に保守的な行為である。
二人の登場人物の恋愛模様にその偏見を乗せたまま見てしまうと作品を見誤る。むしろ、「ファントム・スレッド」はその保守的な感覚を皮肉っているのではないかと。

「私と仕事、どっちが大事なの!!」と怒る自分勝手な女と、「仕事する俺が嫌なら出て行け!」と怒っても一人では生きられない権力主義な男を嘲笑う話という方がしっくりきた。

<仕事と私>を天秤にかける女も男を、とことん間抜けな存在に貶めて「変態男女」として完成させている。「くだらない痴話話」なのでクスクス笑って見てしまう反面、世界観が重厚なので非常に居心地が悪い。

つまりこの映画は「くだらないことを大真面目にやる」コメディ映画の手法をとっている。
なのに、<コメディ映画>と一見感じられない意外性がなんとも良い。真面目な映画という認識で見ると「つまらない映画」と感じてしまう可能性がある、その微妙なラインをついてくるPTAの挑戦的な姿勢は間違いなく、この作品の醍醐味であろう。

超秀逸な構成
コメディ映画を大真面目にやることが、さもこの映画のもっとも大切な要素のように書いてしまったが…
個人的に感動したのが、この映画の圧倒的な説明セリフの少なさと丁寧に"編み込まれた"編集である。

説明するのが難しいのだが…
多くの作品は「状況説明をするためのシーン」が頻繁に登場する。そして駄作になればなるほど、登場人物がベラベラと観客に「今何が起こっているのか」を説明する。(ヒッチコックやシャブロルの<説明シチュエーション>作りは非常にうまいので大いに参考にしている)

しかし、PTAは説明を一切排除。説明的なシーンも削りまくる。
結果、行間を読むような鑑賞を観客に強いるのだが、この「行間を読む」作業を無意識下で行えるような編集や演技、撮影が施されているのだ。
PTA作品を見て「意味がわからない」と言う人が多いのではとよく思うのだが、案外多くの人が「何故かわからないけど面白かった」と答えるのは、この無意識化で物語を追えるように作られているからと想像する。

何故このカットがこんな所に入るのか。
何故このキャラクターはこんな演技をするのか。

「ファントム・スレッド」でも微妙な違和感を少しずつ散りばめており、ディテールを忘れてしまう前にちゃんと違和感に対する答えを適宜出し、観客の興味を引っ張っていく。

そのタイミングの、なんと絶妙なことか。

「PTAって観客の気持ちをどこまでも理解している占い師かよ!」と背筋を凍らせながら見入ってしまった。

編集が素晴らしい
おそらく、上記の感動の一翼を担っているのが編集の技ではないかと思う。

脚本の時点でどこまで何を決めていたのかわからないが、主人公がどういう人間で、どんな人間関係を持って暮らしているのか、はじめの2分ほどで語りきっている。
テンポがいい!という単純な話ではない。
ここまで丁寧に、でもスピーディに、セリフもいい感じで挿入し、観客を導入する編集には驚愕した。

デヴィッド・フィンチャー監督作品などは、ちゃっちゃか説明するためカットを非常に短く、逆に面白かったけど、そういうスピード感ではない。

説明を限りなく省略…さらに省略を続け、必要な所に魅せるカットをどどーんと挿入し、登場人物たちが「何かを感じている」と含みを持たせ、物語に緊張感を持たせる。
え、ここになんでこの人のこういうカットが入るの?と思うと、ちゃーんとナイスタイミングで映像で疑問を回収してくれる快感があった。

映画の見所も編集で非常にわかりやすく見せてくれる。
当たり前といえば当たり前なのだが、PTA作品の場合、一般的な映画の見所と少しずれることが多いので編集から得られる情報が非常に多い。
この「ズレ」がPTA作品の魅力であり、これを面白く見せる編集テクニックについつい感激してしまう。

編集マンはディラン・ティチェナー氏。
「マグノリア」「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」「ザ・マスター」でPTAとタッグを組んでいた、と聞いて頷いた。「マグノリア」はそうでもなかったけど後者の二つはまさに同じ手法で「おおお!」と思ったものである。

おそらく「作家性のある」エディターなのだろう。「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」と「ゼロ・ダーク・サーティ」でアカデミー賞などにノミネートされているということで、このディラン・ティチェナー氏は今後も注目していたい。

見応えあるキャスト陣
さて、主人公を演じるダニエル・デイ=ルイス、その恋人役、ビッキー・クリープス、そして姉役のレスリー・マンビルがとにかく魅力的で、ずっと見ていたい感覚があった。

ダニエル・デイ=ルイスの気持ち悪さが際立って良かった。
その気持ち悪さに共感させられる自分も気持ち悪くなり、彼の気持ち悪さの質が他人とは思えないレベルで見続けられてしまう魅力がある。

脚本で礎のように、些細な「気味の悪いエピソード」が度々登場するのだが、これをギャグに見せずさりげなく演じ、気持ち悪さをリアルに身にまとったままスクリーンに映る。

そんな男を気持ち悪い、と拒否するのではなく「矯正しよう」とする恋人役のビッキー・クリープス。彼女もあどけない顔をしてビッチな感じがまた「悪気がない」まま存在しているのもゾワっとする。だいたい、こういうのって「ああいるよね、こういう性悪女」みたいな演出がされてしまうのだけど、全然そう見えない。むしろすごく可愛い。

自分の立場が悪くなった時に見せる無表情というべきか、子犬のように状況を把握しようとしている彼女の立ち振る舞いがずっと、ずっと印象に残っている。何を考えているのかよくわからない気味の悪さもあり、どうしても憎めない。

PTAの演出術でもあるかと思うが、この人の腹黒い女っぷりは見ていてとても楽しかった。

個人的には主人公の姉を演じる、レスリー・マンビルの演技が一番好きだったかもしれない。非常に制限された演技なのに何を考えているのかがわかりやすく、見ていると心休まる存在になっていたのが印象的だった。
映画の中で唯一良識があり、まともな女性なのに、「冷たい女」風に演じられていて、わかりやすい形で好印象な女性として描かれていないところがまた興味深い。

なぜ「気持ち悪いのに魅力的」で、「ビッチなのにすごく可愛く」て、「冷たい女なのに心休まる存在」になりうるのか。
…しかし、今の私にはわからない。解明する術もない。く、悔しい!

キャストのことを深く掘っていくと、この映画のすごさにもっともっと触れられる気がする。俳優の演技とは、いやはや…非常に深い。

学んだところ
PTAを詳細に解明する方が、くだらない映画を10本見るより勉強になる。





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