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「Stranger than Paradise」鈍感なアメリカを肯定する/ジム・ジャームッシュ監督

1984年アメリカ映画。
ジム・ジャームッシュを一躍有名にし、カンヌで新人賞を受賞した名作である。「パラダイスよりも奇妙な場所」というタイトルの格好よさにあやかりたく、「あー私、ジャームッシュ好きなのよね」と虚栄心を満たしていた高校生、90年代真っ只中の私。何が面白いかよくわかっておらず、「雰囲気がカッコイイ系の映画」というなんとも失礼なカテゴライズをしていた。

言い訳をさせてもらうと、多くの傑作が世に出ていた90年代当時に、この作品を「雰囲気かっこいい系」と言っても許さただろう。振り返ってみると、90年代はミニシアターが全盛で秀作が常に映画館で流れていたので、ジャームッシュ作品をそうカテゴライズしても「秀作」であることは含まれており、カッコよく、かつ素晴らしい作品であるということは前提だったように思う。
(自分は面白さがわかっていなかったけど)

現在の、綿飴のような、歯ごたえのない甘くてまあまあ美味しい映画ばかりが量産されているところを基準にすれば「Stranger than Paradise」は世紀の傑作である。しかも<かっこいい>という言葉でも消費しやすく、オシャレ系の雑誌を見るような感覚で観ればいい、と綿飴好きな人にも乱暴な勧め方もできる間口の広い作品でもあるのも良い。

とにかく、久しぶりに見たStranger than Paradiseは、あまりのかっこよさ、洗練のされ方に脳が痺れた。ジャームッシュって昔から天才なんだな!

カットは割らない
高校生の時に、この映画が何ともたるくて、眠たくなる印象があった。何度か挑戦して、その度に寝て、終いには、とりあえず最後まで流すことを目標くらいな気持ちで適当に見たのを覚えている。

そんな鑑賞をして「ジャームッシュが好き」と言っていた俺を、とりあえずぶん殴ってやりたい。

おそらく、眠たくなる所以は、すべてのシーンがノーカットだからだと思う。

カットを割らない=<時間の流れを、登場人物たちと共有する>ことである。この映画は、登場人物たちが過ごす時間と世界、感情の流れを楽しむことを重要視していて、実際にこの映画は登場人物らと過ごす時間を心地よく堪能できる構造になっている。

途中で消したり、トイレに立ってしまったり、寝たりすれば作品は台無しになってしまうし、半分も理解できないはず。

…じゃあ、この淡々とした物語をどう楽しめば良かったのだろう?

ジャームッシュ的な演出
好みかどうかで分けられてしまうかもしれないが、この作品の面白さは<ある人間の日常に舞い込んだ、その人間にとっての大きな出来事>の語り口だと思う。

つまり、余命が何年だとか、誰かが殺されるとか、奥さんを寝取られるとか、そういうキャッチーな出来事は登場しない。誰にでもある、誰かとの出会い、心の機微をさりげなく描く作風は、ジャームッシュ監督最新作の「パターソン」にも通ずる。(他の作品もそうかもしれない)

誰にでもある日常的な出来事をドラマにする凄さはパターソン評でも書いたけれど、Stranger than Paradiseを見てその原点が見えた気がした。

作品を見始めると一見、主人公たちがダラダラ会話しているだけに思える。けれど、セリフ一つ一つに大きな意味があり、物語の伏線だったり、登場人物たちの価値観や生き方が込められている。

例えば、主人公のウィリーは自分がハンガリー人であることを公にしておらず、ハンガリー語を喋ることを拒否していることが冒頭でわかる。このウィリーのアティチュードが前提にあるから、いとこのエヴァへの態度の変化や、おばさんとの会話を面白がられる。
さらに、友人のエディがウィリーがハンガリー人であるこを知った時、"I am as American as you are"とウィリーが返すのだけれど、ここで観客はジャームッシュがこの作品で言いたいことの一つに「アメリカ観」が込められていることに気づく。

この「アメリカ観」を前提に映画を振り返ってみると…
作品はニューヨークで始まり、雪の降るど田舎のクリーブランド、そして常夏のフロリダで終わる。
登場人物たちがドライブする中、風景は変われど、どうしようもなく変化しない鈍感なアメリカ的なものが浮き彫りになっていく。
そして、場所が変わる中、主人公たちがそれぞれの都市を語る言葉にも「普遍的に存在している鈍感なアメリカ的なもの」が含まれており、よくある正義を振りまくアメリカ観とは真逆な空気が絶えず流れている。

だからと言って、ジャームッシュはアメリカを批判しているわけではない。

むしろ、どうしようもなく鈍感なアメリカを愛おしいものとして演出しており、そのどうしようもなさがカッコよく、洗練されているような見せ方をしている。

特に私は、ウィリーがエヴァに「TV Dinner」を説明するくだりが好きだ。
ウィリーの食事を、ゲテモノを見るように観察するエヴァに対し「レンチンすれば、テレビを見ながら主菜、副菜全部が食べられる優れた食事なんだ」とウィリーは肯定する。
「これを惨めったらしいものとしてではなく、資本主義の権化と化すアメリカをだらしないものとして肯定している!」と興奮した。アメリカの荒廃した感じが良いのだ、という視線に非常な美しさを感じてしまう。これをカット割なしに、観客に染み込むように伝えるのだから…何とも素敵だ。

ジャームッシュ監督作品の台詞回し
もう一つ、敢えて言及したいのはセリフのセンスである。
かつて、この作品の中身がダラダラ続く会話に見えていた俺は、言葉のセンスが皆無で、繊細さの「せ」の字も併せ持っていなかったのだと痛感する。

ジャームッシュ監督第一作目の「パーマネントバケーション」でも詩が大事な要素だし、「パターソン」が詩を中心に据えてある映画であることでもわかるように、ジャームッシュ作品は言葉選びのセンスが素晴らしい。

セリフの全てが詩のようだった。
さりげないセリフなのに何故か心に残る言葉や主人公の人格を表す言葉が、しっかりと物語のフックになっていることがこの映画では沢山ある。

説明的なセリフではないのに、ちゃんと説明的なセリフになっている。
短いフレーズの中に、世界や空間の広がりを感じさせる<詩>というものを意識して書いている人でないと、こういう表現はできないのではないかと想像する。

ジャームッシュ作品の脚本は、必ずジャームッシュ自身が担当している。
そこからわかるように、ジャームッシュはセリフに対するこだわりが強くあり、ジャームッシュらしい作品とは独特な台詞回しにあると言っても過言ではないのではないか。

なんとなくだけど、彼の作品全部を通して「物語が面白かった!」というものは少ない気がする。強いて言えば物語だけでも面白がれる作品だったのは「パターソン」だけのような気がする。

何れにしても、ジャームッシュ作品を存分に楽しむには、セリフをよく聞き、言葉に対する感受性をあげておくことが大切だと「Stranger than Paradise」を観て痛感した。

詩のようなセリフを書き連ねられたらどんなにいいか。
と常々悶々としていることが多いのだけど、まだまだ詩の心が理解できていない私なぞは一つの台詞さえポエジーを含ませることができず。偶然良いセリフが書けたと思うと、そのセリフを活かす演出ができない。

だからこそ、ジャームッシュのスゴさに垂涎してしまうのだ。

さりげない物語展開
個人的に構成にはときめかない方なのだけど、物語のさりげない展開の仕方も好きだ。(最後のさりげなくない展開も大好きだけど)
厳密にいうと、あまりさりげなくない所も健在で、さりげなさを装ってるところが見えるのもいい。

最近のジャームッシュ作品はさりげなさを極めているので、この作品ではまだぎこちなさがある所に喜びを感じた。ジャームッシュがまだ若くて、やろうとしていることが丸出しになっている所に親近感を得られるし、これが演出である、という監督の意志が美しい。

甘くて消化しやすいお菓子のような作品ばかりが誕生していて、映画に対する一種の絶望を感じてしまうことが多々ある中、Stranger than Paradiseを観てよかった。甘いお菓子は食べたらすぐ忘れられてしまうけど、名作は何年も語り継がれる。

また、名作たる所以をわかりやすく提示してくれる作品は良い目標になるし、教科書にもなる。そういう意味で、Stranger than Paradiseはこれからも何度も見直すと思う。

まとめ
甘くて消化しやすいお菓子のような映画は、デートや仲良くない人の共通点も作ってくれるのが良いんだよ、とカッコよく肯定できる自分になれたらと思う。ジャームッシュの新作に触れ続けられる今に生まれてよかった。

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