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「立ち去った女」ラヴ・ディアス監督/Netflixや DVDは映画を観たと言わない

2016年フィリピン映画。
ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞作品である。

ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞をした作家といえば、黒澤明やタルコフスキー、ゴダールなど。(作品で言えば北野武「HANA-BI」カサヴェテス「グロリア」アルトマン「ショートカッツ」など)いわゆる傑作・大監督ばかりが名を連ねる賞を受賞した見逃せない作品である。

が、上映時間は約4時間…。
うっ…長すぎる。

傑作って、それ一部の「わかってる人」やシネフィルだけが絶賛してるだけじゃねーの?…などと弱腰で鑑賞した。

しかし上映時間は全くハードルではなかった。

4時間はあっという間に過ぎ去り、「映画表現っちゅうのは、こう言うことなんだよアホどもめ!!」と殴りかかられ、気絶したいのに気絶できない濃密な時間を過ごさせていただいた。

観て良かった。

脚本・撮影・編集:ラヴ・ディアス
出演:チャロ・サントス=コンチョ

※下記、あらすじをまとめたが物語の全貌が段々と見えて行く所がこの映画の面白さの一つなので、これから観に行く人は読まない方がいい。

あらすじ(ネタバレあり)
小学校の教師だったホラシアは殺人のえん罪で30年間も服役していた。しかし同じ服役囚の親友が自らが殺人の実行犯と告白。ホラシアに罪を着せた黒幕はホラシアの元恋人だと供述する。そして釈放されたホラシアだが、夫は既に他界。息子は行方不明になっていた。自分の人生を破壊した元恋人への憎しみを募らせ復讐の旅に出るホラシア。そんな彼は、社会の底辺で助けを必要とする人々と出会い関係を築いていく…。(allcinema参照)

約4時間の内実
物語に展開がたくさんあるわけでもなく、登場人物も非常に少ない。主人公への共感で観客を導くタイプの作品でもない。しかも語り口は超客観であるため、始めの数分で能動的に鑑賞しないと置いていかれる骨太な映画であることが分かる。

こういう映画は冗長になりがちなのだが(ゴダールはその代表格に思う。いい意味で)前述したように、この映画は4時間があっという間に過ぎる。それは謎が謎を呼ぶ展開が映画の終わりまで続くからだと思われる。

「これなんだ?」と気になる要素が登場し、答えが出てきたと思うとまた「何これ?」というのが登場。途中自分が何を観ているか解らなくなる頃に答えが出てきて「そうだったのか」とやんわり快楽中枢を刺激。

「?」が出てくるとよだれが出てくるパブロフの犬状態が延々と続き、いつの間にか映画世界に取り込まれ、見入ってしまっている。

正直、これが面白いのか面白くないのか。
それはよく解らない。

おそらく、面白い面白くないの物差しをハリウッド映画を観るときと同じにしてしまうと「訳がわからない」ということになるので、あくまでも能動的なスタンスは崩さず見ると圧倒的な「映画体験」ができる。

その没入感覚は非常に新しく斬新でスタイリッシュであり、映画の力とはかくあるものか!と驚きの連続であることは間違いない。

主観の入る隙のない映像表現
この映画にはアップや、説明的なカットがない。
映像は引いた画角で繋がれ、観客が「すぐ近くから物語を観ている」位の距離感である。

人間は何かを見ている時、他者の顔や背景においてあるもの、奥の人の表情など自分で勝手にクローズアップしたり、引いて見ながら環境を理解する。

この映画はそんな当たり前の人間の感覚を引き出しながら進んで行く。

こんな景色の中で、こんな顔の人が住んでおり、こんな音がして、もしかしたらこういう臭いかもしれない。そんな想像をじっくりじっくり咀嚼しながら、ある女の人生のひとときを、まるですぐそこで観ているかのように体験する。

「長回しを多用している」とこの映画について書かれているものを見かけるが、「一つ一つのカットをじっくり解釈し、体験できる絶妙な長さのカットが続く」という表現の方がしっくりくる。

仮にカットを重ねて、時間を端折って作られた映画だとしたら陳腐でどうでもいい映画になっているだろう。

4時間をかけるからこそ、見知らぬ女の人生のひと時に想いを寄せ、心を動かすことができるのだ。

映画とは何か
この作品は「映画にしか絶対にできないこと」をしている。ということに尽きると思う。

それは非常に素晴らしいことで革新的なことであると思う。最近そんな映画はそうそう上映されないし、実際作られているのか疑問である。

それがどういうことなのか、書くと頭を使うし少し面倒臭くもあるのだが、バカを露呈することも承知で少し書かせてもらいたい。

映画は時間芸術である、という言葉は聞いたことがあるだろうか。

かつては「そう言われればまあそうだよね」と位のことに聞こえるが、じゃあテレビとどこが違うのか。テレビだって時間芸術ではないのかと問われると「うっ」となってしまう自分がいた。

そんな時に出会ったのかアンドレ・パザン「映画とは何か」という本。
アンドレ・パザンはヌーヴェルバーグの生みの親と言っても過言ではないと思うが、この本には「ウォォォォ!!!」と脳みそから火が出るような「映画の時間」というものの考え方が詰め込まれている。(少なくとも私はそう感じる)

あくまでも個人的な瑣末な見解で恐縮だが…

映画とは、閉じられた暗い空間で映写された「映像のみ」を見ながら、映像が流れる時間を「ありのまま」体験するものだと解釈している。

つまり、家の中で見るテレビは、テレビの枠外のものが見え(本棚とか)、外の環境が聞こえ、トイレに行きたかったら自由に停止ボタンを押す自由が与えられている。そんなものは映画ではない。Netflix鑑賞も映画ではない。DVD鑑賞も映画ではない。

あくまでも自由を少し奪われた空間で、なかば強制的に見せられていることが必要条件だと思う。

何が言いたいかというと…

この映画の場合、一カット一カットに観客の体験となりうるだけの「時間」が流れ、その時間を享受して初めて「立ち去った女」という世界のリアリティを感じられる仕組みになっている。

もっというとこの映画は物語を咀嚼するための手段としての「映画」ではなく、一人の女の人生(あるいは神かもしれない)という体験を存分に味わうための「映画」なのである。

というのが自分の見解なのだが…書いていることが意味不明かもしれない。

…まあ意味不明なことを長々と書くほど「感動」したのである。

ヴェネチア映画祭金獅子賞受賞について思うこと
見終えた後に一番最初に思ったのは
「もしこの作品を日本人が撮っていたらヴェネチア映画祭までたどり着いたのだろうか?」ということだった。

残念ながら、この作品を作る環境が日本にあるとは思えない。

この映画の脚本段階を読んで評価をし、出資をする人間がいるのか。

天才がすぐ隣でものすごいアイデアを持っていたとしても、その能力を熟成し、育てられ開花させる環境がなく、訳の分からないことを考えてる自称映像作家呼ばわりされるだけなのではないか。

そんな中、こんな凄まじい作品が世界で大きな賞をとり、4時間もの映画が日本で上映されることで「映画の傑作」の概念が人々の間で更新されることは本当に素晴らしいと思った。

映画館も、観にきている観客も映画の歴史に参加してるとさえ感じてしまう。

もし今、「日本の天才」が「傑作」を作ろうとしていたら、この映画は未来を少し明るくしてくれたのではないかと思う。

まとめ
すごい映画は哲学的であり、時に人を大仰にする。(自分だけか)

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