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精子は卵子になぜ向かう

 「幸せになるには思考法しかない」が口癖の上妻さん。蝉の抜け殻を見つけたら必ず踏み潰す上妻さん。占い師から前世は「痰壷」と言われた上妻さん。他人の墓に供えられたワンカップを躊躇なく飲む上妻さん。月極がいまだに読めない上妻さん。ドクターフィッシュがいつまでもいつまでも足から離れない上妻さん。そして、あなたがいたから、あなたがいなければ、決してこの世に誕生しなかったであろう絵を描く上妻さん。
 はてさて、あたしは何を思えばいい?上妻さんに触れたあたしは、一体何を思えばいい?玉葱の皮を剥いてくみたいに、心を剥いては考えた。剥いては剥いて、果てまで剥いて……心の一番奥根っこには何がある?

        ※

 あたしは幸せに興味がある。幸せじゃないから。こんなんだったら、はじめからゼロで良かった。何も始まらなければ、何も終わらない。生きるのも死ぬのも馬鹿らしい。だからゼロで良かった。でも、あたしはなぜだか生きている。だからこそ、あたしは幸せに興味がある。ゼロで良かったはずなのに。

 アラサー女の朝帰り。ただいまとおかえりを一人二役でこなす。溜息、香りはウイスキー。玄関脇の鏡をちらり、化粧はボロボロ、尻軽そう。お気に入りのマニッシュなボブに最近増えてきた白髪を発見。溜息、香りはやや胃酸。だるい。
 テレビを点ける。ノートルダム大聖堂が燃えている。驚いた。けど、こういうことってある。昨晩、会社をクビになったあたしにはわかる。予兆はない。ただ細かな原因は沢山あって、それを予兆というならば日々の不感症が黒幕で。ただ一つ言わせてもらえば自分の頭の中を体現したくて建築士になったあたしに客の紋切型なインテリア相談に延々応えさすというエコノミックアニマル丸出しの空疎な仕事を散々押し付けた会社側がもっと……うるさい、今そんなこと考えたくない。
 震災の時もそうだった。原爆の時もきっとそう。予兆はない。ある日、突然、プツンと。突然の側に回ってみたくなって、乱暴にテレビを消す。プツン。酒だ酒、ファッキンPMS。こんな生理臭い考えはプツンとするべき。

 ズゥゥウウ。ごみ収集車の音があたしの心の音みたい。外に出ると降り出した霧雨。あいにく三寒四温の寒、傘は無し、震える。コンビニで一番安いウイスキーの小瓶を買った。収集車から漂う悪臭を肴に一気に流し込む。世界の汚水が最後の最後に辿り着く排水溝の総元締めになった気分。あれ?人間がいなければゴミなんて概念ないんじゃない?ふと厭なことに気付く。心が渦巻く。よじれて痛い。痛み止めに飲む。ズゥゥウウ。
 歩く。飲む。歩く。気分は泥。道にネズミが死んでいた。大きくも小さくもない。可哀想半分、気色悪い半分。もうちょっと小さかったら、可哀想が強かっただろうか。もうちょっと大きかったら、気色悪いが強かっただろうか。もしもこれが人間だったら。友達なら可哀想?他人なら気色悪い?要するに、どこまで自分事かってこと?中絶はどう?ぶーん、耳元で羽音。あたしは咄嗟に手で払う。ごめん虫、死んでなければいいけれど。
 飲む。歩く。飲む。住宅街。雨に濡れてる窓達がまるで涙を湛えているようで、つられて泣く。「魚が言いました、わたしは水のなかでくらしているのだから、あなたにはわたしの涙はみえません」最近読んだ詩、無駄にシンクロ。更に泣く。窓の数だけ人生がある。そんな風に考えたら急に恐ろしい。地獄は一体何種類?無数の窓から逃れるように、自宅に駆け込みエスケープ。
 飲む。飲む。飲む。微睡む。覚める。飲む。微睡む。覚める。飲む。気付けば夜。しとしと聞こえる雨の音。電気をつける。女子力ゼロの色気のない部屋。仕事柄こだわり家具があるにはあるけど、無機質。血が通ってない。ふと本棚が目に入った。アルコールで脳味噌が煮えていると、背表紙の文字達が踊り出す。あくまで陰気に。そんな中一つだけはっきりと認識できた文字、「何もかも憂鬱な夜に」。無駄にシンクロ、もう枯れたはずの涙がはらり。共感の握手を交わすように本を手に取る。開く、泥酔者らしくテキトーに。
「でも俺達は、なんていうか、味方ってことにするのはどうだ?その時むかついてても、全然会ってなくてもさ……たとえばどちらかがやらかしたことが、気に食わなくて、許せなくても、味方ってことにするというか……誰かそういう人間がいると考えると、生きやすい」
 直感的に浮かんだ旧友。時は二人が十五歳。懐古、飲む、懐古……

「サリンジャーの『エズミに捧ぐ~愛と汚辱のうちに~』って短編読んだことある?」
 初めましての順序を無視した突飛な質問。入学式の日、何かの説明会終わり、夕陽が差し込む体育館。
「いや、読んでないです」
 当然人見知りが発動。更に心がざわついたのは、相手の可憐な微笑のせい。センター分けの黒髪に、白くて柔らかそうな肌。優しい風が似合いそう、彼女の第一印象だ。周りにいっぱい生徒はいたけど、二人の世界って感覚に。
「昨晩それ読んでさ、すっごく良かったの。内容言っちゃってもいい?貴女、読む予定ある?」
 彼女の発するあなたは貴女って感じ。要するに品がある。
「多分読まないと思います。だから言っても平気です」
 名前だ何だと気になったけど面白さ優先。あたしはそういう風に生きてきたし、きっと彼女もそういう人間。
「ありがと、じゃあ遠慮なく失礼するね?
 まず舞台は、十九世紀のアイルランドの小さな山村。その村に一人の女がいたの。その女は、行きずりの旅人に抱かれては子を孕む、そしてその子を産んではすぐに丸ごと食べてしまう、って感じの『我が子喰い』と呼ばれる、とんだ奇々怪々なことを繰り返して生きてたんだって。その女の名前がエズミ。
 そんな恐ろしいことをするエズミに制裁を!って声は勿論村中から上がってたんだけど、その村で一番偉い牧師さんがそれを許さなかったんだって。
『エズミの子達は皆父親がわからない。この点に関しては、子を孕ませた行きずりの旅人達にも責任があるのではないか。エズミだって被害者なのかも知れない』
『そして普段のエズミは全くもって人徳高い素晴らしい女性で、我が子喰いの件以外で村に迷惑を掛けたことは一度もない。エズミのやっている我が子喰いは、見方によっては実に自己完結的であり、我々がエズミを罰すべき時は、エズミが初めて対社会に危害を加えた時ではないか』
 っていうのが牧師さんの意見。まぁ合ってんのか合ってないのかはわかんないけど、村一番の賢い牧師さんが言うならってことで村人達は無理矢理納得してたんだって。
 でもでもどう考えたって気味悪いでしょう?小さな村でそんな女と暮らせないって。だから一部の村人達が、もし次エズミが我が子喰いをしたら、家ごとエズミを焼き殺そうって計画したの。
 そしてそんな計画を立ててる最中に、またもエズミが妊娠しちゃったもんだからさぁ大変。牧師は村人達に馬鹿な真似はするんじゃないって諭すけど、村人達ももう我慢の限界。
 そこで牧師が次の我が子喰いを絶対に阻止するべく、エズミに毎日手紙を書くことに決めたの。で、その手紙の一つ一つがタイトルの「Dear esme」エズミに捧ぐってことね?
 そこからはその手紙中心に物語が進行していくんだけど、エズミが臨月になった後半の辺りで、『初めて君を孕ませたのは私なんだ』って急に出てくるの。
 実はエズミを初めて孕ませたのが当の牧師だったっていう。牧師も過去に旅人としてこの村を訪れた一人で、その時にヤっちゃったらしく、しかもそれがレイプだったらしい。それでエズミは相当なトラウマを抱えちゃって、その時に初めて出産した未熟児を、気が狂って食べちゃったみたいな。で、その手紙がどんどん加速度的に牧師の衝撃的懺悔になっていって。
 エズミへの罪を償うために聖職者になった。でも、いざこの村に来てエズミの現状を知ったらどうすればいいかわからなくなった。そして何の解決策も見出せないまま何年も時は過ぎ、それでいて村人達の前では、優秀な聖職者である自分の立場を守らなければいけなくて。本当に本当にすまなかったみたいな。
 そして奇しくもその懺悔の手紙の翌日に、エズミが産気付くの。そしたらもう村人達はどうするの、牧師はどうするの、エズミはどうするの、一体全体どうなるの、ってな感じで最後は終わるんだけどさ。
 あ、ごめん!なんか一人で長々喋っちゃってたね!ごめん!」
 圧倒されてしまった。寿限無の勢いで一息にあらすじを完走した彼女。強烈。そして照れ臭そうに浮かべた笑顔は、優しい風が絶対似合う。
「全然全然!それってすっごく面白そう!サリンジャーってそんな感じなんだ!ちょっと読んでみようかな!」
 気付けば敬語もどこへやら、恥ずかしながらの大興奮。彼女へ好意を伝えたくって、無防備な笑みを投げ掛けた。
「あ、ごめん。今の全部嘘ね」
「え?」
 何がごめんで何が嘘?発言の意図が汲み取れない。
「『エズミに捧ぐ~愛と汚辱のうちに~』って短編は実在するんだけど、内容は全部嘘ってこと」
「え?なんでそんな嘘つくの?」
「え?なんでって、面白いかなって。面白ければ、いいかなって」
 彼女との関係は、この段飛ばしの出会いに全てが集約されている。以降の友情の上塗りは言うまでもなく、「あなたがいたから」この一言に尽きる濃厚な関係を構築できた。
 彼女と過ごした女子校生活で得たもの。面白い、やる。この動機と行動の直結感。思うに、青春の妙味ってそういうこと。動機と行動の直結感。もっと突き詰めて言えば、死ぬかも、でもやる。躊躇の余地はない。高純度。その上で、時間は流れてるんだけどまるで流れてないかのような、かけがいのない瞬間をどれだけ生み出せるか。あたしは、そういうことが出来ていた。自然と、純粋に手を伸ばしていた。自分が善いと思えるものに、無知ながら、真実めいたものに手を伸ばしていた。今と違って。今と違って……

 懐古。飲む。飲む。意識がぬるりと今に帰還。地獄。頭と心が割れそうに痛い。あれ?息って吸うんだっけ?吐くんだっけ?そもそもなんで息してるんだっけ?生きるのって面倒くさい。死にたい。死にたくないけど。そうだ不貞寝。不貞寝だ不貞寝。
 そんな最低ベロベロ気分で寝る前唯一やったこと。エズミの彼女に会いたいって連絡。

       ※

「やっぱり絵はいいね?」
 春のうららの美術館。外へ出るとそよ風。再確認、彼女は優しい風が似合う。
「そうだねエズミちゃん」
 言うまでもなく、あの一件から彼女のあだ名はエズミちゃん。黒を基調とした涼しげなファッションなのに、陽光をまとった彼女は白を思わせるから不思議。多分あたしは真逆、白を着てるのに黒。
 あれから時は十余年。会うのは久方三年振り?可憐な微笑に刻まれた歳を隠せぬ細かな皺は、彼女の人生に笑い多き証。
「絵を観た後ってさ、自然がより自然として迫ってこない?グワーッていうか」
「わかるよエズミちゃん。バビョーンっていうか」
「そう、バビョーンでもある」
 旧友は素敵、言語を省略できるから。二人の間でしか通じない単語を発してる時なんてもうサイコーで。総人口二人の国を建国しちゃったみたいな。家族的というか、二人だけの宇宙っていうか。時に弊害もあるんだけど、心地良さの勝利。
 そして、公園の新緑があたし達に迫り来る。グワーッ。行き掛けも通ったはずなのにまるで景色が違って見えて、異様なまでの新鮮さで。バビョーン。
「同じ世界を見てるなら、どう見るかだ」
 風に向かって呟く彼女、真っ直ぐに澄んだ瞳。対して自分は虚飾のカラコン、なんだか惨め。
「あと私ね、いつも絵を観てると、何してもいいんだって肯定されてるような気がするの」
「わかるよ。同じ四角形なのに、同じ四角形?って思っちゃう感じ。描き出しも自由、色も自由、題材も自由、同じ四角形なのに千差万別。何してもいいんだってね?」
「そう、初めて芥川の『河童』を読んだ時もそうだった。書き出しが『どうかKappaと発音してください』だよ?絵と一緒でさ、同じ紙で、同じ四角形なのに、ホント何書いても良いんだなって」
「わかる。逆にカワドウって読む奴いたら連れて来いっていうね。わかるよエズミちゃん」
 昔から口を開けば文学だった彼女、今ではなんと物書きさん。社会的に成功してる訳じゃないけど、数年前に見つけた旦那さんも協力的で、細々キラキラやっている。少なくともそう見える。
 そしてまぁなんと言っても、あたし達の変わらない相性たるや濡れちゃう。心が内側からあったまる。時の経過もなんのそので凸と凹がぴったり。まるでテトリス。原始の人間は二人の人間が繋がって一体の身体だったっていうアリストパネスの話が本当なら、あたしの相手はきっと彼女。人生のパートナーって意味じゃあ彼女は旦那も子どももいるんだけど、うるさい。今そういうこと言ってない。
「そういえばエズミちゃん、イデアの素粒子って何だと思う?」
 あたしは面倒くさい女。生まれもっての思弁癖とメンス脳が絡み合って炸裂。彼女との関係に甘えて、説明も抜きに気色悪いことを聞いてしまう。
「何それ?プラトンでも読んだの?」
 面倒くさそうに笑う彼女。でも、早速答えを探してくれている。大好き。
 はてさてその間に説明。仕事のクビだなんだと精神きりきり懊悩したあたしが、ギリシャ哲学に行き着いたのはアリストパネスが出てきた時点でお察し。善きものを愛求するのが人間、とはかのソクラテス先生。確かに人間何かについて悩む時、「どうしたら善い?こうしたら善い?」なぜだか善いを目指してる。なるほど、善きものを愛求するのが人間。わかる。
 ただ思う。「なんで、善きものは善きもの?」あたしは面倒くさい女。浅学の感は否めないけど、プラトン先生もそこだけふんわり仕上げなもんだから。
 善に向かうべきってのはわかった。でもなんで?善のイデア(理想)ってもんがあるらしいけど、イデアはなんでイデアなの?イデアをイデアたらしめるモノは?イデアをニュートリノ実験施設でスーパーカミオカンデ使って観測したらどうなるの?イデアはなんでイデアなの?イデアの素粒子って何?
「ごめん、ちょっとイデアの素粒子についてはわからないんだけど。その、なんていうか、善を善ってしてた方が、生きやすいからじゃない?」
 あああ、思考の点が繋がっていく感じ。グワーッ。彼女がいると生きやすい。バビョーン。
「うちの子がね、まだ恐らく意識も何もない頃から、いい顔して笑うのよ。絶対的に善な顔して。それを見て、色んな学問の観点から分析することはできると思うんだけど。やっぱり私は守ってあげたいってシンプルに思ったし、子どもが生きる為に絞り出した善なんだって直感したの。生の為。だから、イデアの素粒子に関する答えにはなってないかも知れないけど。イデアって『生きやすい』がテーマなんじゃないかな?生命の活動っていうと大袈裟だけど」
 やばい、酒も飲まずに涙腺ゆるり。痒いところに手が届き過ぎ。ああ、アラサー女の情緒不安定はみっともない。潤んだ瞳を手で扇ぐ。恥ずかしい。そしてなんか悔しい。ふぅー。空の青を堪能してるフリして深呼吸。
 なんとか雰囲気ごまかす為に、路傍の桜に話を逸らした。
「そういえばエズミちゃん、桜は花びらより、散った後の緑が好きって言ってたよね?」
「よく覚えてるね、だからこの時期の上野公園なんて最高だよ。
 ねぇ、桜と言えばさ、梶井基次郎の『桜の樹の下には』って短編知ってる?」
「え、知らない」
「とりあえず貴女、読む予定はないよね?まずその短編の書き出しなんだけどさ、
『冬ながら 空より花の散りくるは 雲のあなたは 春にやあるらむ』
 って和歌から始まるの。古今和歌集に収録された歌なんだけどね。
『まだ冬なのに空から花が散ってくるのは、もしかして雲の向こうはもう春なのかな?』ってな意味合いで、雪を素敵に桜舞い散る風景に見立てた和歌なんだけど。梶井先生の物語では、主人公の男がその歌を参考に、ある春の夜、酔狂の末、桜の樹の下で考え込むの。
『あの和歌が本当なら、果たして、この桜の樹の下にも、冬の空が広がっているんじゃないか?』ってね。
 春の陽気も手伝ってか、そんなお伽な思考がふわりと定着した男は、桜の樹の下を夢中になって掘り進めるの。そして遂には、本当に、桜の木の下に冬の空を発見するんだけど。生憎待ち受けていたのは悲劇で、男はそのまま冬の空へと急降下。大地にべチャリと体が弾けて、積もった雪に色付く血飛沫、まるで満開の桜のよう。ってな感じで、最後は不条理に醜悪美的な描写で終わるんだけどさ。あゴメン、ちょっとグロテスクだったかな?えええ?嘘ごめん、泣いてる?」
「……ごめん」
「ええええ!泣かないで?今の話、全部嘘だからね?」
「わかってる……エズミちゃん、全然変わらないなって、いいなって」
 面白い、やる。この動機と行動の直結感。懐かしいと思うより早く号泣。あたしは面倒くさい女。「面白い人は優しい、何故なら笑えないことをしないから」そんな持論をあたしに定着させた彼女の面白さ、心根の温かさは、色褪せるどころか更に輝きを増していた。
 ああ、スタンドバイミー的な郷愁が心に溢れて止まらない。あたし達には、ユークリッドの幾何学もスパイダーマンもドストエフスキーもエルヴィス・プレスリーもなかったけれど。もっと大切なことがそこにはあったってことは絶対共通。それはエズミちゃんが側にいてくれたこと。そして、今もエズミちゃんが側にいてくれること。心に流れるwhen the night。嗚咽。あたしは面倒くさい女。

 エズミちゃんから不思議なLINEが来るようになったのは、美術館デートの翌朝からだった。まずは一通目。
「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
 幸せになるには思考法しかない?絶望論者?幸福論者?そして何より、上妻さんって誰?それから特に説明もなく連投された二通目。
「アイスの蓋の裏を舐めさせたら世界一の上妻さん」
 だから上妻さんって誰?あたし達の共通の知り合いに上妻さんなんて人はいない。なになになに?こちらの混乱をよそにトドメの三通目。
 花の絵が一枚。まさかの画像。油絵かな?アクリル?無論説明は一切無し。元気一杯の色彩だけど、どこか闇を孕んでる。そんな花の絵。
「いきなり何?」とか「上妻さんって誰?」とか「これは上妻さんが描いた絵?」とか色々聞き返せば良かったんだろうけど。あたしが送った返信は一言、「上妻さんの絵、あたしは好きだな」。
 完全に悪癖が出てしまった。学生時代からエズミちゃんと共に培った、相手より粋なことを言って終わらないと居ても立っても居られないという悪癖。ただ「上妻さんの絵、あたしは好きだな」って返しの気が利いてるかどうかは微妙。わかってる。でも今回の彼女は流石に荒唐無稽が過ぎる。前置きも無しに死角から爆竹、そんな感じ。受け入れただけでも善しとしたい。
 思えば、ユーモアでも真面目な話でも何でも、全ての話題であたし達の悪癖は発揮されてきた。年季が入ってる。優位に立ちたいって訳じゃないけど、でもやっぱり優位に立ちたくて。いやでも、どっちが上とか下とかって無粋な話じゃなく、でも下はイヤっていうか。こっちが先に奢って「次は奢ってね」って言いたい感じというか。ん?今のはちょっと違うような気もするけどとにかく。あたし達にはこういう悪癖があった。ただ、その負けず嫌いな悪癖が二人の感性を育てたという自覚もあって、お陰で何度も二人だけの世界を浮遊できたように思う。だから互いに触れる事はないけど、絶対的に認め合ってる部分でもある。なんだけど、今回の件に限ってはあたしが折れれば良かった。だって……こんなモヤモヤが毎日続くって思わないじゃん!

 二日目
「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「加齢臭をなぜか湿布の匂いで誤魔化そうとするため、地獄の化学反応を起こしている上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

 三日目
「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「あごの鋭さが自殺の名所・東尋坊を思わせる上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

 四日目
「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「まだ吸えそうな煙草を灰皿から見つけるスピードが、競技かるたを思わせる上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

 五日目
「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「何でも競艇に例えてあげると、途端に飲み込みが早くなる上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

 六日目
「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「風俗嬢のブログから名言を引用してくる上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

 いやね、エズミちゃんのこういう執拗さは大好きだよ?「面白い、やる」の精神に溢れてるから。でも同時にちょっと厄介。一度こういうルールめいたものが始まると中々止まらないんだもん。こっちが弱音を吐くか、あっちが飽きるまで。改めてこのパワーバランスを省みると、なんやかんやで毎回あたしが負けてたのかも。大人の見解。
 ただ人間、慣れというのは怖くって。一週間も経てば、上妻さんにちょっとずつ感情移入している自分もいて。頑なに定型で送られてくる「幸せになるには思考法しかない」って言葉も、今のあたしへのエールなのかなって感じてみたり。毎度趣向の違う上妻さんの絵に自然と唸ってみたりして。

 七日目
「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「新聞配達で使ってるカブに『赤ちゃんが乗ってます』ステッカーを貼って薄くスベってる上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

 へえ、新聞配達の人なんだ、ご近所付き合いの延長かしら?流石は子持ちの主婦ですわ、それにしても絵画は趣味なの仕事なの?いずれにしても味がある、なんて。気付けばエズミちゃんから届く上妻さん通信を心待ちにしているあたし。
 そして、毎度二通目から漂う人間の黄昏感といえばもう病み付きで。不本意ながら、徐々に本心となってきたこの想い。上妻さんの絵、あたしは好きだな。

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「写真を取る時いつもアインシュタインを真似るも、舌が決まって真っ白な上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「愛撫の語源はアイラブユーという、気色悪い持論を持ってる上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「前髪の心許なさが天空の城・竹田城の雲海を思わせる上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「入れ歯との兼合いで、時々モンゴルの歌唱法ホーミーのような二重音を発する上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

 そんな不思議なやりとりを繰り返す日々。言いたくないけど、一度だけ不和。
 例によってあたしが一人ウイスキーに逃げてた夜。子持ちの都合も考えず暇電。部屋着、素っぴん、ハンズフリー。そしてエズミちゃんに延々浴びせ続けた愚痴のシャワー。あたしの会社クビ問題に端を発する、人生相談とも言えないレベルの吐瀉物たち。あたしはメンヘラという言葉を盾にメンヘラを振りかざすような女が大嫌いで、やたらに人に弱味をさらけ出す人間のことを躊躇なく「無礼者」と呼ぶ三島先生に普段は激しく共感しているはずなのに。最悪。たまに出ちゃう。頭と心がとことんズレちゃう。鯨飲、罪悪感を散らすため。
 それに対して、菩薩のごとくうんうん優しく聞いてくれていた彼女が、これまた思い遣りを振り絞るように掛けてくれた一言。
「それじゃあ今の貴女ってさ、可能性は無限大だね?」
 軽率。世界唯一の友にしては投げやりな一言。あたしはそう感じてしまった。
「いや、年齢的にも能力的にも消えてる選択肢は多いよ。全くもって無限大じゃない。エズミちゃん、珍しく軽率」
 氷の温度で言い放っていた。言葉を選ばず、剥き出しに。言ってしまったが最後とはこのことで、言いながらにして既に頭では後悔していた。
 その後も淀んだ空気をうまく取り繕えず「眠い」と一言、勝手に終話。溜息、香りはウイスキー。更に飲む、怒りのウイスキー自己嫌悪割り。
 オイあたし!!人の善意を一体何度やり過ごす?一度や二度じゃないよね??過去にも無数の心当たりあるよね??人のエールを!!人の優しさを!!人の善意を!!自分の弱さが原因で何度やり過ごす??いつまで続ける弱い自分!無力な自分!くだらない自分を守る為に、愛をくれた人を傷付けてんじゃねぇよブス!!互いに好き者同士ってさ、言葉の奥を聞くのが基本でしょ??言葉選びは間違う時だってあるよ!!ただ、言葉の奥は、絶対に好意だったり善意だったりするんだから!!一時の感情で言葉に流されんなよ!!なんと言っても好き前提!!なんでも奥を見る強さを持てよ!!いつまでやんだよ弱い自分!!ごめんねエズミちゃん!!ホントごめんね……
 気付けば朝。ふらふら歩いて洗面所。涙とウイスキーでグシャグシャになった顔を洗う。鏡、目の下のクマが大陰唇みたい。溜息、香りは不潔感。
 気怠く部屋に戻ると着信。いつもと変わらぬ上妻さん通信。情けない。また少し泣く。ごめんねエズミちゃん。

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「自己破産のことをラッキーチャンスと呼んでる上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

 自己破産という言葉が持つイメージが自分の心境と重なって、思考の導火線に着火。あたしは面倒くさい女。
 人生って破滅が多い。だからスクラップアンドビルドなんて言うんだろうけど。ただでさえ多い自分の力が及ばない範囲の破滅、ほとんど不可避とも思える破滅。そこに自分が引き起こす破滅を爆乗せするあたし。スクラップアンドビルド、スクラップアンドビルド、スクラップアンドビルド……オイあたし、ビルドはどうした?ビルドが一個も見当たらないけど、ビルドはどうした?建築士でしょ?ビルドはないの?ビルドがないなら、もう自分が破滅しろよ、自分で破滅しろ……
 そんなことを考えては絶望を深めた。泣きながら、胃をひくつかせながら、朝の不快な雨音の中。

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「猥談をする時は自分のことを下妻さんという上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「半額シールに対する執念が、吉良上野介邸への討ち入りを思わせる上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「公園で野良猫と喋ってるのかなぁと思い近付いたら、猫はおらず完全に一人だった上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

 テレビを点ける。車が園児に突っ込んだというニュース。やるせない。あたしが生きていることに矛盾を感じる。御冥福。やるせない事件は思考のトリガー。一見、悪の不在とも思える事件なら尚更で。
 ダウン症の青年が銃のおもちゃを屋外で所持していたところ、通報を受けた警官が切迫した状況と判断し射殺。
 車椅子の高齢者がスズメバチの大群に五十分間襲われ続けて死亡、付き添いのデイサービス職員は自分の命を守ることで精一杯だったという。
 統合失調症の娘から二十年以上に渡る家庭内暴力を受け、行政や医療機関にも見放された老夫婦が困り果てた末に娘殺し。
 特に意見がある訳じゃない。善も悪も正しく把握できていないあたしだから。同じ人間である限り、広義で当事者であるはずなのに。逃げてしまう。そんな無力な自分を心底恥じつつ、考える。ただひたすらに考える。それが唯一他者にできること。他者ではいけないんだろうけど、そうやって日々自分の心を研いでおくことが重要なんだと思う。思考の分野で使う筋肉は違えど、自分の心に耳を澄ませる練習。自分がそうだからって訳じゃないけど。人間、善悪について葛藤する時点で善だと思う。だからあたしはいつも葛藤していたい。願望として。

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「激安缶チューハイを開ける前、一瞬だけ目を閉じる表情が天才ピアニストを思わせる上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「文字面だけで『鍾乳洞』を卑猥な店だと勘違いしてる上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「長袖シャツの片方の腕を抜いて、陽気に腹部をボンボンするあの遊びが上手すぎる上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

 近頃、上妻さんのことについて考える時間が増えた。人の人生に入って来るなって思う。生きるも死ぬも馬鹿らしいと思ってるあたしに、彼の口癖は意味を持つ。なんてったって、あたしは幸せに興味があるから。人の人生に入って来るな。もう一度言う、人の人生に入って来るな。そもそも無礼講で言わせてもらえばあたしは人の人生に及ぼす少からずの影響に責任を持てないから潔癖とも言うべき距離感で間合いを取り無干渉を貫いているのにどうして周りは勝手に人の心にズケズケと、嘘、本当はわかってる。
 人の人生に入ることは素晴らしく、自分の人生に入って来てもらうことは途轍もなくありがたいってこと。

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「人の家のインコに淫語ばかり吹き込む上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「要するに、といつも言うけど一回も要せたことがない上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「屁をこいた時はちゃんと屁をこいたって言う派と言いつつ、案の定屁をこいても浅ましい表情で沈黙を貫く上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

 上妻さんの絵を見て、思い出したこと。あなたがいたから、あなたがいなければ、決してこの世に誕生しなかったであろう上妻さんの絵を見て思い出したこと。去年横浜で見た、晩年のモネの絵。燃えるような薔薇の絵。鮮やかな色彩が直接目に飛び込んできて、体内にどくどく物語となって流れ込んでくる感じ。それは、重度の白内障の人間が描いた絵とは到底思えなかった。
 自分の人生全てを絵の具にしてるんだ、そう直感した。画家として長年駆け抜けてきた矜持、白内障で視力が失われていく絶望、それでも絵を描き続けようとする情熱、そういった彼の人生全てが絵の具となりキャンパスの上に塗り重ねられているんだって。あなたがいたから、あなたがいなければ、の最たるもの。だから良いんだ。だから気持ちが良いんだ。
「私がやってきたことと言えば、この世界を見つめて、それをただ筆に記録することだけだ。どうということはない。ほら、君の手を貸して。この世界をもっとよく知るために、力をあわせよう」クロード・モネ。
 あたしもそうやって生きてみたい。あたしの手段は絵じゃないけれど。生き方として、幸も不幸も全て絵の具にしてみたい。

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「牛丼チェーンの持ち帰り用紅生姜を常時ポケットに忍ばせ、フリスク感覚で食べている上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「手を繋いで歩くカップルの間を稲妻のように切り裂く上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

「『幸せになるには思考法しかない』が口癖の上妻さん」
「星と星を自由に繋いで、オリジナルのドスケベ座を幾つも見出してる上妻さん」
 花の絵
「上妻さんの絵、あたしは好きだな」

 上妻さん通信が来るようになって三ヶ月が過ぎた頃、パタと通信が止まった。始まりも急だったけど終わりも急。束の間の転校生みたい、せっかく仲良くなれたのに、寂しい。エズミちゃんとのやりとりは継続していたから「上妻さん、なんかあったの?」くらい聞けば良かったんだけど。例の悪癖あなどるなかれ、歯痒さ堪えてノータッチ。野暮厳禁。
 でも、そんなことより何より、今、あたしは元気。前を向いてる。三ヶ月前とはまるで別人で、結局は時間が一番のお薬だってことなんだろう。ただ今回の件は、上妻さんに寄るところがかなり大きくて。人生って大体において訳の分かんないことで悩んでるんだから、訳のわかんないことで前向きになってもいい。悩み事が全部綺麗にほどけることってそうそうないから。そういう思考が上妻さんに触れて出来るようになった。とにかく今、あたしは元気。前を向いてる。

       ※

「この盃を受けてくれ、どうぞ波波つがしておくれ」
 謎に益荒男な口調であたしを潰そうとしてくるエズミちゃん。自分はソフトドリンクのくせに。
 すっかり熱燗が沁みる季節。最早ガールズトークなんて言えないあたし達は、哀しいかな赤提灯が似合う。狭いカウンターに並んで座る。気心知れた大将がセレクトした懐メロに、閑古鳥の鳴き声が重なる。
「花に嵐の例えもあるぞ?さよならだけが人生だ」
 漢詩だか井伏鱒二だか寺山修司だか、どうやら彼女なりに別れを惜しんでくれてるみたい。クパッと一息、おちょこを飲み干す。酒と感謝で体が火照る。あたしは一週間後、仕事のため東京を離れる。
「エズミちゃん、言っとくけどね、さようならって接続詞だから。あたし達は終わらないから」
 酔って気分が良いと、自分でも驚くようなことを口走ってしまう時がある。さようならは「左様ならば」。その先に幸せさえ用意しておけば決して悪いものじゃない。人間は意味付けができる生き物だから、さようならには全力で幸せを紐付けるべき。とかなんとか、素敵な思想がぷわりと出ちゃう。今日のお酒はいいお酒、あははん。
 そしてあたしの言葉を受けたエズミちゃんは、なぜかソフトドリンクを一気に飲み干した。例の悪癖に抵触してしまったようで、どこか悔しそうに、でもどこか嬉しそうに。
 ノートルダム大聖堂とあたしの心が炎上した春。あれから少しずつではあるが、着実に修復は進んだ。並列で語るのも忍びないけど、ノートルダム大聖堂に世界から莫大な寄付金が集まったように、あたしにはエズミちゃんが莫大な優しさをくれた。あたしにとっては、エズミちゃんが世界なんだろう。きっと言い過ぎだけど、言い過ぎじゃない。
 それから、会社を突如ほっぽり出されたあたしの思考回路の経過といえば。やっぱり、頭の中を体現したい。あなたがいたから、あなたがいなければって類の。そうだカフェ。カフェだカフェ。女の子だもん。設計もインテリアも全部自分。海が綺麗なところがいいな。あ、おばあちゃんが住んでる街とかサイコーじゃない?爆裂に社畜だった分、多少の資金は大丈夫。え、やばい楽しい!やるしかないよね?この動機と行動の直結感!年齢制限なんてないよね!いいよね?今より堕ちるは絶対ないし!善いよね?云々。
 もちろんこれは、アルコールに浸かった陰鬱ブス思想を全カットした行程で。「海が綺麗な街でカフェ」という発想のヤバさもわかってる。これでも社会で数年揉まれたあたしは、飲食店開業の生存率、2年後で50%、5年後40%、10年後5%、そんな数字も入ってる。
 そこであたしの目論見としては、事務所兼カフェ。今まで通り建築系の不動産、インテリアにまつわる仕事は継続させつつカフェを稼働。都内で仕事をしていて、いつも打ち合わせする場所には苦労させられた。基本的に理想の未来について話し合う場なのに、センスがなかったり窮屈だったりするのが悲しかった。だから顧客との打ち合わせを自分のこだわりが行き届いたカフェでやれば一石二鳥。あたしが出来る仕事を相手もイメージしやすいだろうし、何より楽チンで精神衛生も文句なし。更に言うなら、田舎に引っ越すことで大好きなおばあちゃんにも孝行できるだろうし一石三鳥。そういう算段なんだけど……わかってる。自分でも計画の甘さは香ってる。でもやる。やるのだ。知識に経験に資格に手続き、ギブアップ要素は満載。でもやる。死ぬかも、でもやる。あれから数ヶ月、ボロボロになりながらも怒りのメンヘラロードを爆走してきたあたしだから。自分の生き方を定める為、心に耳を澄ませて、熟慮に熟慮を重ねてきたから。

「この盃を受けてくれ、どうぞ波波つがしておくれ」
 まだ言ってる。エズミちゃんは素面のはずなのにすっかりベロベロの感。楽しそうで何より。それを見てあたしも嬉しくなって、クパッ、クパッ、クパッ。酔いが回る。時間は流れてるんだけどまるで流れてないかのような、かけがいのない瞬間。
「そういえばね、貴女のお陰でいい本が出来ました」
 急に改まったエズミちゃんは、はにかみ混じりに本を手渡してきた。大きさ的には絵本のサイズ。そして表紙には見覚えのある絵。元気一杯の色彩だけど、どこか闇を孕んだ、あたしの思考を導いてくれた大好きな絵。
「自分で製本したやつなんだけどさ。良かったら、これからできるカフェにでも置いて?」
 心と涙がドバッと溢れた。今日は泣かないって決めていたのに。
「いつも貴女は自分だけが苦しいみたいな言い方してたけど、当然いつも私も苦しいんだからね?だから書いた」
 この際だから言わせてね、と彼女の瞳に書いてある。慌てたあたしは、謝罪の体で聞き返す。
「それじゃあいつも、エズミちゃんも苦しいのに我慢して聞いてくれてたってこと?」
「だから、あくまで自分が悲劇の中心みたいな言い方はやめて。みんな中心なの。吐き出すことで調整する人もいれば、聞くことで調整する人もいるってこと。貴女のガチャガチャな思いを聞くことで、私は自分のガチャガチャを整理してた。世の中ね、無傷の人なんていないから。状況は違えど、みんな同じ。みんな違うんだけど、みんな同じ。本質的な話」
 どこか懺悔めいて喋る彼女は珍しく黒っぽい表情。自分に言い聞かせてるようでもある。
「本当に打ちひしがれてる時って、言葉より何より、ただ一緒にいてくれる人がいるってことが重要でしょう?自分を思ってくれてる人がいる、それだけで救いになる、そういう夜って私も沢山あったから。あと、そもそもなんだけど。人の仕事にとやかく言う人って、自分の仕事が疎かな人。頑張ること知ってる人は下手なこと言えないよ、頑張ってる人の気持ちわかるから」
 吐露する側の居心地が悪いのか、単に手持ち無沙汰なのか、彼女はおしぼりをイジイジ。左手薬指に馴染んだ指輪は、産まれた時から付けてるみたいで違和感がない。少なくともそう見える。
「私だってね。物書きっていう最低限のストイックさが求められる職業なのに、家庭を持って平穏無事な生き方をしている自分に嫌気がさすことがあるの。このままで良いのかなって」
 彼女も悩んでるという当たり前に触れて、自分の想像力の欠如が浮き彫り。
「表現って、人と違えば違う程、その差異の幅を面白がる側面があるでしょう?日常を切り取って差異を生み出せたら一番なんだけど、そんな場合ってセンスが異常にあるべき。それか勉強量を上げて変態的なまでに含蓄を練り込むか。その為にやるべきことって死ぬ程ある筈なんだけど、生温い快適の中に身を置いちゃってる。子どもと遊んだり、旦那とセックスしたり、自分が幸せのど真ん中にいる時、いつも腹の底から罪悪感がドロっと込み上げてくる。だって、その間も世の中の超ストイックモンスター達は、自分の血肉をインクに物語を生み出し続けてるんだよ?それってもうさ、無理じゃん。無理って言ったら終わっちゃうけど、無理じゃん」
 おしぼりをイジイジ、開いて、折って、そうすることで彼女なりに思考を整理しているのかも知れない。
「そんな時にね、貴女の話を聞くとすごく豊かになれた。ちゃんと生きていなければ文章は書けない。常々そう思ってる私にとって、貴女はかっこうの刺激っていうか、栄養だった。だって貴女は、ちゃんと生きてるから。
 突然会社をクビになったアラサー女。安いウイスキーを小瓶で胃に直接流し込む女。PMSが年々酷くなって話すタイミング次第でまるで人格が違う女。建築現場の看板の詳細を嬉々として読み込む女。気に入った造形の建物を見ると躊躇なく不法侵入する女。
 これって私の職業病かも知れないけどさ、そんな女、栄養でしかないでしょう?貴女を通して世界は見てたら、みるみる物語が浮かんできてね、それをそのまま文章に落とし込んだって訳。だから読んでみて?はい、ペニス」
 いつの間にか器用に折られたおしぼりは男性器の形になっていた。笑っちゃう。いつも会話の最後を無理矢理でも笑いにしてくれるエズミちゃん。泣いちゃう。
 あたしは本を開く。渾身の感謝を指先に込めて、自分の心を剥いてくように。

『青が綺麗な港町。新聞配達が一人いる。雨の日も風の日も、休むことなく配ってる。赤が可愛い屋根の家。幼い少女が一人いる。雨の日も風の日も、秘かな楽しみ一つある。毎朝すっと朝刊にまぎれて、一枚の絵が入ってる。実はさっきの新聞配達、人よりちょっぴり絵が上手。少女が毎朝喜ぶならばと、夜な夜なせっせと描いている。

 毎朝の絵に心が動いて、少女も自分で描きだした。まだまだ新聞配達みたいに、素敵に上手くはないけれど。絵を描く時間がとにかく楽しい、世界もまばゆく見え出した。ぼーっと見ていた海に空、全てが絵画の先生だ。ぼーっと生きてちゃもったいない、全てを絵筆に込めるんだ。いつかは新聞配達よりも、素敵に世界を描くんだ。

 星が綺麗なある夜に、幼い少女のパパ死んだ。ほんとの悲劇に予兆はないし、奇しくも少女は父子家庭。まばゆく思えた世界の全てが、みるみる黒く染まってく。人は一回手を繋いだら、ずーっと一緒じゃなかったの?だから全部と手を繋ごうって、パパはいっつも言ったよね?どうしようもないじゃないかと、少女は全てを拒絶した。どうしようもないじゃないかと、心を黒で塗り潰す。それから世界を終わらすみたいに、部屋中の絵も塗り潰す。部屋も心も絶望一色。憐れな少女は独り言つ。
「こんなことなら、はじめからゼロで良かった」

 翌朝訪ねた新聞配達、家の異変にすぐ気付く。全ての状況把握して、必死に瞬時に考え抜いて、まずは少女を抱き締めた。そうして絵の具を手に取って、部屋中の黒に白い点。ちょんちょんちょん……全てに描き終え筆を置く。それから少女をも一度抱き締め、優しく心に囁いた。
「闇の絵はね、星の絵を描くにもってこいなんだ」
 不謹慎なほどに綺麗ごと。でも事実、星に満ちた部屋美しい。
 その時少女がどう思ったのか、心の動きは知らないが。大人になった彼女は世界で「星の画家」なんて呼ばれてる』

 顔をグシャグシャにしてあたしが本を読み終えた頃、店内に「ひとつだけ」という心境ぴったりの名曲が流れ始めたのは偶然だろうか。前奏の優しいピアノが心をとろとろに溶かしていく。盗み聞きの癖がある大将を後日問い詰めないといけない。嗚咽がはかどる。

離れている時でも 僕のこと忘れないでいてほしいよ ねぇお願い
悲しい気分の時も 僕のことすぐに呼び出しておくれよ ねぇお願い

「エズミちゃん、ホントありがとね。絶対カフェに置く。一番良いところに」
「表紙も挿絵も最高でしょう?きっと見覚えがあると思うけど。この原稿持ってさ、幾つか出版社回ろうと思ってるの。この作品が出来たのは全部貴女のお陰。勝手に物語に落とし込んじゃって悪いんだけどさ、いっぱい愚痴聞いたからいいよね?全ては貴女がいたからこそ。ありがと」

離れている時でも わたしのこと忘れないでいてほしいの ねぇお願い
悲しい気分の時も わたしのことすぐに呼び出してほしいの ねぇお願い

「ねぇエズミちゃん。もうこの際時効っていうかさ、例の悪癖で触れたら負けだって思ってたから、ずっと聞けなかったんだけど……上妻さんって誰?」
「え?」
「いやだから、この絵の人だよ。あたし、この人のお陰で色々考えられたんだ。幸せじゃないなりに、幸せに向かう方法」
 気付けばおしぼりをイジイジしてるあたし。形が形なだけにちょっと変な気分。
「あたしとしては、『幸せになるには思考法しかない』って断言しちゃうのはどうかと思う。だって、世の中断言できることってそんなに無いはずだし、何より浪漫がないでしょう?ただね、共感する部分も大いにあってさ。だからあたし、自分なりに考えてみたの。悲しいことも苦しいことも全部絵の具だって思考法。幸も不幸も全て絵の具にして、人生を描くっていうか」
 人はなぜ向かうんだろう。人はなぜ目指すんだろう。心の中で自問する。
「だからエズミちゃん。いつかあたし達が死んだらさ、あの世で完成した絵見せ合いっこしない?暗い絵でも気色悪い絵でも何でもいいから、きっと善い絵に仕上げる約束。せっかくだからさ、きっと善い絵に。人生ってせっかくだから……ってことで、上妻さんにお礼言っといて?」
「あの、なんだか気持ち昂ってるところ悪いんだけどさ。さっきからかみづまさんかみづまさん言ってるの、うわつまさんね?」
「え?」
「だから、かみづまさんじゃなくて、うわつまさん。」
「え、かみづまさんって、うわづまさんなの?LINEで文字面しか知らなかったから」
「うわ『つ』まね。」
「え、ごめん、あたし完全にかみづまさんって小汚いおじさん想像してた」
「おばさんね」
「え?うわづまさんって女なの?」
「うわ『つ』まね」
「女なの?」
「そう、全員女」
「全員って?」
「五つ子だから」
「え?」
「ボスニアヘルツェゴビナ出身の」
「ボスニアヘルツェゴビナ?嘘でしょ?」
「うん」
「ちょっと待って。どこから嘘?」
「どこからって、最初から」
「え?最初って?名前の読み方?」
「いや、そもそも上妻さんって存…あ、ごめん電話」
「ちょっと待って!え?」
「ちょっとごめん、電話行ってくる」
「ちょ待っ」
 想定外の展開に脳が揺れる。景色がぐわん。待って?上妻さんっていないの?体温が一気に急上昇。あたしは、いない人間を軸にして、人生における大切な思考を積み上げてきたって訳?それじゃあ、あの絵は誰の作?エズミちゃん?なになになに?え?人物像に多少の脚色は感じてたけど……怒涛にフラッシュバックされる上妻さん像……

 いびきの大きさが豚を活き締めにしてるか如きの上妻さん。ガラケーの待ち受け画面がエッチな形に育った野菜の上妻さん。ポロシャツのインの仕方がチマチョゴリを思わせる上妻さん。カメラを「キャメラ」までは許すとして、リズムのことを「リドゥム」と言う上妻さん。ふと口ずさむ鼻歌がいつも野球拳の上妻さん。歯磨きの時にえずく声が、口から生命を産み落とすタイプの化け物を思わせる上妻さん。「フェラチア、フェラチイ、フェラチウ、フェラチエ、フェラチ?」って聞いてくる上妻さん。箸の持ち方が無作法で、芸妓がかんざしで悪客の眼玉を突く時の感じになってる上妻さん。缶に残った粒々コーンへの執着が凄まじく、底を叩く姿が民族楽器奏者を思わせる上妻さん。「ジョギングが身体に良い」と世界で初めて提唱した博士はジョギング中に死んでいる、という雑学をいつもジョギング中に話してくる上妻さん。人肌を求めて満員電車に乗る上妻さん。街で可愛い小学生を見ると「ずいずいずっころばし」をやりたがる上妻さん。何の裏付けもないのに先祖は士族だと言い張って鬱陶しい上妻さん。異臭がするので床下でネズミでも死んでるのかと思ったら自分の靴下だった上妻さん。自分のイメージと合致するからと、沖縄出身でもないのに女性器のことを「宝味」と呼ぶ上妻さん。何度説明されてもフィンガーボールの水を飲んでしまう上妻さん。映画を観る前にSEXシーンがあるかないかで賭博する上妻さん。酔っ払うと、薄い墨汁で書いた平仮名の「ぬ」みたいな顔になる上妻さん。紙幣を数える時の指ぺろが、指美味しいのかなレベルの上妻さん……

 まぁいいや。いてもいなくても、どっちでもいい。いるもいないも、好きな方を選べばいい。神様も一緒。人は生きやすい方を選べば善いのだ。それって結局思考法。そして面白ければ、なお善い。
 手酌で一杯、心に沁みる。
 あたしは初心に返って悪癖の継続を決意する。そして、燗酒とショックでふわついた頭で、海が綺麗な街のカフェへにょろにょろと思考を向ける。

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