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トマス・クランマーの生涯 はじめに(5)

(4)の続き

 同様に、トマス・モア卿、ジョン・フィッシャー主教、そして1540年代後半までの英国民の大半が奉じた宗教を’保守的’あるいは’伝統主義的’と評したことに異議を唱える読者もいるかもしれない。これらの表現はホイッグ的な響きがあり、1500年代、1510年代のエラスムスの人文主義から見ると理解し難いものであることは十分承知している。これらは、クランマーおよび改革志向にあった彼の同僚たちが、モアやフィッシャー、エラスムスの宗教心より先進的あるいは近代的であることを意味するものではないが、中世後期のカトリック主義の支持者が、相反する人々を‘新しい学問の人々’と呼ぶことを好んでいたことは注目に値する。中世後期の西方教会を何の説明もなく’カトリック’と呼ぶことは、あまりにも多くの疑問を抱かせるし、その用い方はトマス・クランマーのその生涯の後半において疑いなく憤激させたことであろう。1520年代初頭から1556年のクランマー大主教の死までの宗教をめぐる闘争は、それまでの古い世界の信心が、これまでのものを破壊し、何かしら’改革的’なものへと置き換えることを目指す新しい宗教観に対して、そのアイデンティティを守り抜こうと奮闘したダイナミックな出来事であったことは否定することはできないであろう。’保守派’あるいは’伝統主義者’という呼び名は不満族に思われるかもしれないが、時代錯誤や党派性に陥ることなしに初期チューダー朝のイングランドの物語を語るにはこれが最善の仕方なのである。

 

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