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僕を僕にしてくれるのは、彼らが今日も生きているから~映画で絶望してた青年を映画が救う話~

 いきなりだが、誰にでも憧れの人がいる。

 容姿、恋愛対象として、考え方、生き方。憧れ方は様々だ。しかし、その様々な憧れの中で人は少なからず生きていく力を得る。

 著者である僕自身、今日まで生きてくれたことに感謝を述べ、明日も元気に生きてほしいと思う”おじいちゃん”(愛称込みで)が二人いる。

 一人目は、クリント・イーストウッドだ。言わずとしてたハリウッドの重鎮。俳優として大成し、監督としてもたくさんの名作を残している。著者である僕と彼との出会いは、「Back to the futureⅢ」という映画で主人公が西部開拓時代にタイムスリップした時に偽名として、クリント・イーストウッドと名乗る。それは、彼がマカロニウエスタンとしてハリウッドでは下火になっていた西部劇をイタリアで成功させたからだが、それが22歳である僕とクリント・イーストウッドとの出会いである。

 要するに僕は彼が俳優として、映画スターである時代を知らない。僕が生まれたころにはクリント・イーストウッドはクリント・イーストウッドとして、頑固なおじいちゃんを熱演していた。

 僕は彼から映画の美しい力を教わった。彼に出会った頃の僕は「スターウォーズ」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「インディー・ジョーンズ」いわゆるジャンル映画ばかり見ていた。

 次に何を見るかで映画の趣味・思考が大きく変わっていたと思う。そこで僕はクリント・イーストウッドがつくった映画に出会った。彼の映画は見かけの派手さや、最先端の映像技術なんかはない。

 しかし、彼は映画という表現を使い、人間の内面を深く表現し(彼は父性や過去の罪への追憶が大きなテーマだが)、人類が映画という表現を発見してから挑戦し続けてきたことを高いレベルで挑戦し続けた。毎回作品ごとに何か新たな表現に立ち向かっている。

 彼は2021年現在、90歳だがまだまだ長生きをしてほしいと思う。

 二人目は、またもや言わずと知れたコメディアン・ビート武(北野武)である。

 著者である私は上記したように映画に心酔し、大学三年になった時に映画製作を始めた。自分が大好きだった映画というものをいざ作ってみると、意外にも様々な問題に出会った。資金の問題、日本という国の映画の重要性の低さ。

 そして、映画館に行くと何の気なしにハリウッド産の超大作が公開されていた。自分がつくっているものと大きくかけ離れたその資本主義映画をあんまり好きになれなくってきた。日本でいう映画とは、自分の中で映画という表現がだんだん何かわからなくなってきた。

 そこで、北野武監督作「その男、凶暴につき」と出会った。新鮮な暴力描写、手際のよいストーリー運び及び編集、何より俳優としての魅力をまとう北野武。

 今の日本ではクールな映画がつくれないと言っていた自分が馬鹿みたいに思えてきた。映画に絶望してた青年を映画が救ってくれた。それは紛れもなく、何の気なしに生きている僕たちが、自己を自己と認識する、一番簡単で誰でもできる、「自分はこれが好き」を与えてくれる存在。つまり、何が起きても何が自分の身に起ころうとも、誰が何と言おうとも僕はこれが好きという感情が僕を僕にしてくれる。

 だからこそ、僕にとって二人は僕を形成するうえで外せない人物であり、いつまでも元気に生きてほしい”おじいちゃん”なのだ。

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