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令和

さて、令和である。今日、日本人が最も多く話題にしたテーマであり、TwitterにもFacebookにも、令和にまつわるありとあらゆる投稿が溢れかえっている。中には、自分が抱いた想いと同じようなことを書いてくれているものもたくさんあって、わざわざ自分が同じテーマで文章を書く理由なんてないようにも思わされる(実際、ない)。

ただ正直に言えば、菅官房長官の発表を見たときに、最初に抱いたのは「違和感」であった。「あれ、この前昭和ってあったやん」というのが一つ。「令」という文字が、何となくバランスが悪く、容易にゲシュタルト崩壊してしまうというのが一つ。「へいせい」というどっしり感に比べると、音もなんとなく軽い感じがする。「命令」とか「律令制」とか、令が後ろにくる熟語には馴染みがあるが、前に来るのは見たことがない。そんなことがパパッと頭に浮かんで、「あ、そうなんだ…」「他の案よりも良かったのかな…」みたいなことを、自然に考えてしまった。例えるなら、父が突然、新しい母を連れてきて「明日からこの人がお前のお母さんだ」と告げられたときのような(告げられたことないけど)。美人だし、きっと父にもいろんな事情があったに違いないが、いずれにせよ僕はそれを受け入れるしかないのか、といった、諦めの境地にも近いような。

などと書くと、新元号を真っ向から否定しているようだが、そんなつもりは全くない、つもりである。出典が万葉集からというのも素敵だし、そこに込められた意味も、願いも、美しい。SNSが発達して、世界中のありとあらゆる出来事が瞬間的にシェアされてしまう現代において、当日まで誰も情報を知ることができず、官房長官の発表をテレビの前で固唾を飲んで見守っているさまも、古文でいうならいとをかし、である。何より、平成のときは、官房長官があのような形で新元号を発表することすら誰も知らなかったわけだけど、今回はそれをみんなが知っていて、みんなが一緒にその時を迎えられたことが、本当によかったなと思う。

それなのに、違和感どうのこうのを最初に書いてしまうのは、もしかしたら、長年の広告屋生活で染み付いてしまった習性なのかもしれない。B案、C案との比較なしに、A案を手放しで受け容れることに、体が慣れていないのだ。いや、自分は提案するほうなのだが、それでも無意識に同じ感覚を身に付けてしまっているのだろうか。選択の余地があるということは、必ずしも、人を幸せにはしないのかもしれない。

閑話休題。平成に生まれて、ずっと平成の中で生きてきた子どもたちは、突然訪れたこのイベントを、どう受け止めたのかな。「5月から令和になるんだよ」「なんで?」「天皇陛下が変わられるからよ」「ふうん」みたいな感じだろうか。不思議なお祭り感とともに訪れた新しい令和の時代が、子どもたちの未来にとって、どうか明るいものでありますように。


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