夏海と拓海

夏海と拓海 1

 アフロディテ。
 確かにそれは八月の強い陽射しと、碧い海の輝きのせいだったのかもしれない。
 でも、そのときぼくが観た彼女は、確かにアフロディテに思えた。
 日焼けした身体に纏っているのはごくシンプルなビキニだけ。すらりと伸びた手足。長い髪を後ろに束ねて、ボードの上に立っていた。手にしているパドルで沖の方へ出ると、ちょうど波ができるあたりで向きを変えて、その波に乗る。
 波はごくちいさなものだが、とてもスムーズに乗り、浜の手前でまた方向を変えると、沖へと向かう。
 海水浴客で賑わっている海岸なのに彼女だけが輝いて見えた。ざわめきも喚声もぼくの耳には届かない。
 ただ波の音とそしてその波に乗るビキニ姿の彼女だけ。
「拓海、あの娘、めちゃ可愛くない?」
 カジ──梶山隆宏──がぼくのとなりでぼそっと呟いた。
 昼時の逗子海岸。ぼくたちは午前中の部活を終えると、渚橋近くのコンビニでサンドウィッチを買い、東浜に座り込んで食べているところだった。
「拓海、聞いてる?」
「ああ」
 ぼくはぼんやりと返事をすると、カジの顔を見た。それまで途切れていたざわめきがドッと押し寄せてきた。
「ああ、聞いてる」
 今度はしっかりと頷く。
「だから、彼女、いけてない?」
「だめだ」
 ぼくは首を横に振った。
「だめって」
 ペットボトルに口をつけようとしていたカジは怪訝そうな顔をした。
「どういうこと?」
「だから、彼女はだめだ」
 ぼくはゆっくりと答えた。
「もしかして彼女となにかあった? それとも知り合いとか?」
 カジはそういうと、ペットボトルのスパークリングウォーターをひと口飲んだ。
「どっちもイエス」
 ぼくは小さく頷いた。
「フラれた?」
 カジはいたずらっぽく訊いた。
「そうじゃない。あいつは──」
「あいつは?」
「そう、あいつはぼくの叔母さんだ」
 ぼくはカジの顔を見て答えた。
「え?」
 カジは声を上げて訊き返すと、改めて波に乗る彼女を見返した。
「だって、あの娘、若いぜ。ため歳ぐらいじゃないの?」
「ああ、同じ歳だよ。でも叔母さん」
 ぼくは苦笑いで返した。
 そう彼女──貝津夏海はぼくのおじいさんの娘だから、ぼくの叔母さんだった。しかもぼくより三ヶ月あとに産まれている。
 貝津駿也──ぼくのおじいさんはカメラマンだ。広告を専門にしていたが、ある日を境に海洋をテーマに替えて活動をしている。もちろん対象が『海』だからあちこちに移動することが多い。というか、ほとんど日本にいないといった方がいいかもしれない。
 いまはハワイに住んでいる。
 もちろん夏海もハワイ在住。ときどき日本に帰ってくることはあるが、ぼくが夏海と最後に会ったのは小学五年の頃、いまから五年前のこと。
 彼女はいまと同じように日焼けして真っ黒だったけど、身体つきはいまと違ってがりがりの針金のような娘だった。
 五年。あっという間に過ぎた時間なのに、こんなに変わってしまうとは。
「日本に戻ってたんだ……」
 ぼくはサーフィンを楽しむ彼女を改めて見直していった。
「うん? どういうこと?」
 ペットボトルを飲み干すとカジがいった。
「ハワイに住んでるんだよ」
 ぼくはそういうとサンドウィッチの残りを口に放り込んで立ち上がった。制服の尻についた砂を払いバッグを肩に担ぐと、コンビニのビニール袋を丸めた。
「ハワイって、あのハワイ?」
 ゴミ箱に向かって歩き出したぼくの後を追いかけるようについてきたカジがいった。
「ほかにハワイなんてないよ」
 僕は立ち止まると、振り返って答えた。
「そりゃそうだけど、またなんでハワイなんだ?」
 カジが興味深げに訊いてきた。
「ぼくのじいさんはカメラマンなんだ。海やサーファーなんかを主に撮っている」
 ぼくはそういうと歩き出した。
「だから彼女あんなに上手いんだ、サーフィンが」
 カジは納得したように頷いた。
 ぼくはもう一度振り返ると、まだ波に乗っている彼女の姿を目で追った。確かに上手かった。
──あいつ小学生の頃から毎日のように海に出ていたものなぁ。
「で、挨拶はなし?」
 カジはなにかを期待するようににっこりと笑うといった。
「なんで?」
 ぼくは首を傾げた。
「だって久しぶりの再会なんだろう。その、ちょっと変だけど、同い歳の叔母さんとさ」
「こっちにいるなら、また会えるさ」
 ぼくはそういうとコンビニの袋をゴミ箱に捨てた。
「せっかくだから紹介してくれよ、叔母さんに」
 カジが茶化すようにいった。
「お前、彼女いるじゃん。紹介する必要なし」
 ぼくはキッパリといった。
「お前はいいけど、オレはまた会える保証ないぜ」
 カジは食い下がった。
「海に来れば、会えるって」
 ぼくはそういうとバッグを肩にかけなおして海とは反対方向へと歩き出した。
──そう、また会うチャンスはあるさ。
 確かに、すぐに会うことになった。もちろん『チャンス』などという言葉で表現してはいけないシチュエーションではあったけど。

 その日の夜、ぼくは自宅に帰るとお袋とふたりで夕食を摂り、自室のベッドに寝転がっていた。
 宿題はたっぷりと残っていたけど、夏休みはまだ一ヶ月近くあった。しばらくは部活の日々が続くはずだった。
 机の上のデスクライトだけ点けて、ぼんやりと天井を見上げていた。気がつくと、波に乗る夏海の姿が頭に浮かんでくる。
 カーテンを開けたままの窓から月の光が飛び込んで来ていた。その冷たい光がベッドに寝転がっているぼくを映し出す。なんだか自分だけが取り残されたように気になって、すこし落ち着かなかった。
 そのとき、家の電話が鳴った。
 呼び出し音がやけに哀しげに聞こえた。 
 電話に出たお袋の絶句する声が漏れ聞こえてきた。
 どれぐらい時間がたっただろう。相変わらず冷たい月の光がぼくを照らしている。
 やがてドアがノックされた。
 静かに開いたドアからお袋が部屋に入ってきて、そのまま後ろ手に閉めた。じっと立ったままぼくの顔を見た。
「拓海、おじいちゃんが亡くなったって」
 お袋の声はすこし震えていた。
 ぼくはベッドの上で起き上がると、なにもいうことができず、ただ頷いた。

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