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Born In the 50's 第十話 中央フリーウェイ

    中央フリーウェイ

 レガシーのハンドルを握りながら近藤は何度もバックミラーを確認している。
 あまりにも頻繁に確認するので石津は不思議に思い口を開いた。
「近藤、そんなに後ろが気になるのか?」
「石津、気がついていないのか? つけられてるぞ」
「え?」
 石津は思わず後ろを振り返った。濱本も同じようにリアウインドから後続の車の様子を確かめる。
「どの車だ?」
 濱本が訊いた。
「黒のセダン。あれはアコードだな」
「あっ、いま車線変更したやつか」
 濱本が運転席に向かっていった。
「それだ」
 近藤はじっと前を見たまま頷いた。
「どうしたら巻ける?」
 石津は近藤の方に身体を向けると確認するように訊いた。
「任せてくれるか?」
「車屋だろ、頼むよ」
 濱本が後ろで声を上げた。
「じゃ、シートベルトを確認して前を向いていてくれ。できればおしゃべりはなしだ。集中したいから」
「わかった」
 石津は頷くとナビシートに座り直した。そのままドアグリップを左手でしっかりと握った。
 左側を見るとちょうど相模湖が見えてきた。
 近藤はそのまま追い越し車線を走りながら、じりじりとスピードを落としていった。すこし距離のあった後続車がみるみる近づいてくる。そのまましばらく走っていたが業を煮やしたのか、後続車はいきなり走行車線に入るといっきにスピードを上げ、クラクションを鳴らしながら石津たちの車を追い抜いていった。
 さらに続く後続車はパッシングを浴びせながら、同じように走行車線を使って追い抜いていく。
 それに続く後続車はトラックだった。
 黒のアコードはそのトラックのさらに後ろにいた。ときおりトラックの影から車体がちらちらと見える。
 たぶん尾行している車からも石津たちの車を視認することはできず、同じようにトラックからはみ出した部分が見えるだけだろう。
 そのトラックがみるみる近づいてきたが、近藤はそのトラックに合わせるようにすこしずつスピードを上げて、抜けそうで抜けないようにコントロールしていた。
 相模湖ICを過ぎてもまだその状態のまま近藤は追い越し車線を走っていた。
 藤野PAの看板が見え、しばらく走り、PAの入口が見えた瞬間、近藤はハンドルを左に切り、一気に走行車線を横切ってそのままPAに飛び込んでいった。
 尾行していたはずの黒のアコードは予測していない動きについていけず、慌てて走行車線に移ろうとしたが、後ろから走ってきた軽自動車のクラクションに追い払われるように追い越し車線に戻り、PAの入り口を通りすぎていった。
「ちょっとだけ寿命が縮んだぞ。この前のATMのお巡りよりもヤバかったんじゃないのか?」
 パーキングエリアの駐車場に近藤が車を停めると、濱本がいった。
「いや、あのときのばあちゃんの方が始末が悪かった」
 近藤は笑いながら答えた。
「そうかもしれん」
 石津も同じように笑いながら頷いた。
「それはそうと、やつらすぐに戻ってくるんじゃないのか?」
 濱本が訊いた。
「確かに」
 近藤はそう答えるといきなりレガシーを発進させた。
「どうするんだよ」
 濱本が前のシートにへばりつくようにして尋ねた。
「なんとかして振り切らないとな」
 近藤が答えた。
「どうやって?」
 石津が尋ねたが、近藤はすぐには答えなかった。
 高速の本線に戻ると近藤はしっかりと前を見た。
 石津はその視線を辿って路肩に停まっている黒のアコードを見つけた。
 近藤は無言でハンドルを握っていた。
 前方とバックミラーを交互に見やる。
 追い抜いた黒のアコードが動き出したのを確認すると追い越し車線に入り、スピードを上げはじめた。メーターはすぐに百キロを越え、さらにスピードは上がっていく。
 石津はじっとドアグリップを掴んだまま、半身になって前と近藤を交互に見ていた。
 そのとき石津のiPhoneが鳴った。はじめて見る番号からの電話だった。
「もしもし」
 石津は落ち着いて電話に出た。
「やってくれるじゃないですか」
 田尻の声だった。低く抑えてはいたが、いくぶん怒りが籠もっている。
「なにがだ?」
 石津はなんのことか判らず訊き返した。
「メモリカードです。近藤さんのご家族の写真しか入っていませんでしたよ」
 田尻の返事を聞いて、石津は思わず近藤の顔を見た。
 近藤は石津の視線に気がついたがとぼけた顔のまま見返した。
 石津が電話を切ると、その近藤が口を開いた。
「どうかしたのか?」
「どうかしたのかって、お前、なにをしたんだ?」
 石津は溜息とともに訊いた。
「なにをって、カードならここにあるよ」
 近藤がにやりと笑ってカードをポケットから取り出して見せた。
「お前、どうやって」
 濱本が後部座席から身を乗り出すようにしてカードを見つめたまま口を開いた。
「どうしてお前が持ってるんだ?」
 石津は確かめるように訊いた。
「お前、俺からカードを取ったときに入れ替えたな?」
 濱本の問いかけに近藤は頷いた。
「なにごとも先手必勝なんだろ。こういうときはなにか武器を持っていた方がいい。とはいっても銃器の類でどうしようってわけじゃない。交渉する材料があれば、考えようがあるじゃないか」
 近藤はそういいながらmicroSDカードを石津の掌に乗せて、その手に握らせた。
「しかし、これで国家安全保障局の右手と左手の両方を敵に回しちまったぞ」
 石津はふたりの顔を交互に見ながらいった。
「いまさらごめんなさいもできないしな」
 濱本はぶっきらぼうに答えた。
「とりあえずこのままなんとか振り切ってくれ」
「わかってるって」
 近藤はそういうとさらにアクセルを踏みつけた。
 追いすがる黒のアコードはじりじりとその差をつめてくる。ただ、さきほどのことがあったためか今度は走行車線を走っていた。
 上野原ICが見えてくると、近藤はなんの迷いもなくハンドルを左に切り、高速から側道へと進んでいった。
 石津が後ろを確認すると、黒のアコードはすぐ後ろを着いてくる。
「どうする? 高速を降りるのか?」
 石津が近藤の方に向き直って尋ねた。
「まさか」
 近藤は嬉しそうに答えた。
 タイヤを軋ませながらそのまま料金所の方へと進んでいく。
 料金所のゲートの手前、他の車線との間のコンクリートブロックがなくなったところで、近藤はすこしきつめにブレーキを踏み込み、車が前のめりになると一瞬ブレーキをゆるめた。その瞬間、いきなりハンドルを右に切って車を転回させ、そのまま上り車線へ入り直した。
 黒のアコードは意表を突かれたようで、タイヤをスキッドさせながら急停止すると、方向を変えようとした。が、料金所を抜けてきた車にその行く手を阻まれてしまった。
 クラクションが鳴り響く。
 黒のアコードに驚いた他の車がそこに停止してしまったため、後続車たちがそこで立ち往生してしまった。もちろん黒のアコードもその混乱に巻き込まれてしまい、身動きが取れなくなっている。
「ヒュー」
 車がぐるりと方向転換を終え、ぐいと加速すると濱本は口笛を吹いた。
「お前、すごいことを考えるな」
 石津も呆れたように近藤の顔を見る。
「さて、このまま東京へ戻ろう」
 近藤は笑った。
 そのまま再び中央高速に合流すると、近藤はパトカーの餌食にならないよう慎重に、しかし可能な限りスピードを出して、走った。
 後ろを何度か確認したが、黒のアコードはおろか、それらしい車は着いてきていない。どうやら振り切ったようだった。
 石津はそれを確認すると、改めてナビシートに座り直して、近藤から受け取ったmicroSDカードを取り出して、じっと見つめた。
 この中のデータになにか秘密があるはずだ。国家安全保障局がこうやって大捕物をしなければならないほど、大切ななにか。そして、それはまた同時に大学時代からの友人、早見の死に関わっているなにかかもしれなかった。
 石津はその場で振り返り、後部座席でなにか考えごとをしていた濱本の顔をじっと見た。
「どうした?」
 石津の視線に気がついた濱本は顔を上げると尋ねた。
「お前、いまパソコン持っているよな」
「ああ」
「例のトリプルブートのMacか」
 石津は座席にあるパソコンを見ながら訊いた。
「それがどうかしたか?」
 濱本は不審そうな顔をして訊き返した。
「いや、このデータ、お前なら調べられるよな」
 石津はそういいながらカードを濱本に見せた。
「任せておけ、といいたいところだが、きちんと解析できるかどうか確認してみないと判らないぞ」
 濱本は慎重に言葉を選びながら答えた。
「らしくないぞ、濱本。ファイルを確認したい」
 石津はそういうとメモリカードを濱本に渡した。
「そうだ、まずコピーを取っておいてくれ。なにかあるといけない。カードは俺が預かっておくから」
「わかった」
 濱本は言葉少なくただ頷いた。
 石津は座り直すとじっと前を見た。近藤がハンドルを握っているレガシーは八王子ジャンクションを通り過ぎたところだった。
「どこへいくんだ?」
 石津が訊いた。
「どうすればいい?」
 近藤が逆に訊き返した。
「どこかでちょっと一休みしたいところだが」
 石津が考えながらいった。
「そうだよな。ただ、相手の想像もつかない場所の方がいいだろ。だとすると、中央高速のどこかというわけにもいかないしな」
 近藤はそういいながら考えを巡らせているようだった。
「適当に走ってみるよ」
 やがてなにか考えが浮かんだのか、石津の顔を見て頷いた。
 レガシーはしばらく中央高速を走り続け、八王子ICで高速を降りると、そのまま十六号線を南下しはじめた。
「だめだ……」
 後部座席に座っている濱本が首を振りながらいった。
「どうした?」
 石津は振り返ると濱本の顔を見た。
「がっちりとプロテクトされていて、コピーができない」
 濱本はうめくようにいった。
「まったくできないのか、お前でも」
 石津は濱本の方へ身を乗り出すようにしていった。
「いや、不可能な訳じゃない。人が作ったものだ。だからなにか方法はあるはずだが、いますぐここでコピーすることはできそうにない」
 濱本は弁解するようにいった。
「ふむ」
 石津はただそうつぶやくとそのまま前を向いて座り直した。
「どうする?」
 今度は濱本が石津の方へ身を乗り出すようにして尋ねた。
「ファイルの中は見られないのか?」
 石津はその場で後ろを向くと訊いた。
「いや、ファイルは確認できるよ。ただ、このmicroSDカード全体にプロテクトがかかっていて、ファイルを取り出すことができないだけだ」
 濱本はそういって頷いた。
「じゃ、ファィルを調べてくれ」
 石津はそう答えた。
 車はそのまま十六号線を走り、やがて保土ヶ谷バイパスへと入っていく。車間が開いたところを見つけると車線を変更して、車を追い抜いていく。ただ無茶な追い抜きはしない。流れの中に溶け込んで走った。近藤はハンドルを握りながら、しかし後方の確認だけは忘れなかった。
「どうするつもりだ?」
 石津がハンドルを握る近藤の顔を見ていった。
「しばらく首都高を走ろうかと思ってさ」
 近藤は石津の方へ視線をやって答えた。
「首都高か」
 石津がつぶやくようにいった。
「中央高速からそのままじゃないところがミソだよ。湾岸線ならまったく別の方角だろう。まさかそこを走ってるとはあいつらも思いもしないはずだ」
 近藤は頷きながら答えた。
「なら大黒PAへいってくれ。あそこでちょっとひと休みしよう」
 石津がいった。
「わかった」
 そのまま横浜横須賀道路に入ると狩場インターチェンジで首都高狩場線へと進み、さらに本牧ジャンクションを抜け、湾岸線を走る。本牧ふ頭の上へ出ると視界は急に開けて、左右に海が広がった。橋を越えるとすぐに大黒PAだ。車は側道へ進むと、カーブの連続するゾーンを抜けて、大黒PAへと進む側道へ入った。
 平日ということもあって、駐車場はさほど混んでいなかった。近藤は様子を伺うようにスピードを落として駐車場内を走ると、車を本館のすぐ前に駐めた。
 ここの一階には土産品を売っている売店と軽食が食べられるコーナーがあり、二階にはレストラン、三階にはカフェテリアがあった。
 しばらくあたりを伺ってから石津が口を開いた。
「いいだろう」
 それを合図に三人は車を降りるとそのまま本館の三階へ向かった。
 カフェテリアに入ると、石津と濱本は窓側の席に向かい合って座った。
 近藤が気を利かせて三人分の飲み物を注文しにいくと、トレイに乗せて運んできた。
「アイスコーヒーでいいか?」
 近藤はそういいながら、ふたりの前にカップをそれぞれ並べ、自分は石津の隣に座る。
「ありがとう」
 石津は近藤にひとこと声をかけると、濱本の顔を見た。
「どうだ?」
 石津が濱本に尋ねる。
「うん……」
 濱本はMacBook Proの画面に見入ったままだった。
「それが……」
 やがてぽつりといった。
「どうしたんだ?」
 石津はしびれを切らしたように訊いた。
「ファイルはふつうの画像ファイルとドキュメントファイルなんだ」
 そういって濱本は顔を上げた。
「どういうことだ?」
 石津は唸るように口を開いた。
「いや、ファイルの中身なんだが、ふつうの画像ファイルとドキュメントなんだ。ただ……」
 濱本はそこでいったん口を閉じると、周りを伺うように確かめてから続けた。
「ちょっとした細工がしてある」
 石津と近藤はその言葉に頷くと、テーブル越しに濱本の方に顔を寄せた。
「ドキュメントの方はなんてことのない普通のファイルだ。中を見ても、ただの報告書でしかない。ただ、画像ファイルの方はサイズが大きすぎる」
 濱本は声のボリュームを落とすと、ゆっくりと話した。
「どういうことだ?」
 石津が訊いた。
「Jpegファイルなんだが、画像の内容からするとサイズが大きすぎるんだよ」
 濱本は頷きながらいった。
「だから、どうなってるんだ?」
 石津が改めて訊いた。
「わからないか? サイズが大きいってことは、そこになにかが埋め込まれているということだ」
 濱本は石津の眼をじっと見て口を開いた。
「画像ファイルに、別のデータも乗っかっているということか?」
 石津は確かめるように聞いた。
「きっと別のファイルを埋め込んでいる」
 濱本はそういうと椅子の背凭れに身体を預けた。
「抜き出せるのか?」
 石津がさらに濱本の方へと顔を寄せた。
 近藤はふたりのやりとりをただ黙って聞いている。
「ソースを解析しなきゃいけないけどね」
 濱本はニヤリと笑った。
「できるんだな?」
 石津は納得したように頷いた。
「どうする?」
 今度は濱本が石津に尋ねた。
「決まってるだろ、解析して隠してあるファイルを見つけたい」
 石津は強く頷いて、続けた。
「それはここでできるのか?」
「このMacBook Proでも大丈夫。ただし、時間がほしい」
 濱本は首を縦に振った。
「石津!」
 そのとき、近藤が石津の脇腹を肘で突きながらいった。
「どうした?」
 石津が近藤の顔を見たとき、カフェテリアの入り口に立っているがっちりした体格の男の姿が眼に入ってきた。
 田尻と沢口だった。
 ふたりは大股でテーブルへ近づくと三人の顔を交互に見た。
「よく、ここがわかったな」
 石津が田尻にいった。
「ご存じだとは思いますが、わたしたちにも最新の技術はあるんですよ」
 そういって田尻は濱本のとなりの席に座った。
 沢口はだれかが席を離れようとしてもその動きをすぐに止められるように、テーブルからすこしだけ離れたところに立っている。
「お持ちの携帯電話にはGPSが搭載されているんです。番号を調べれば、Nシステムよりもスピーディにどこにいるのかが判る」
 田尻はそういうと、じっと石津の顔を見た。
「わかった、負けたよ。で、どうすればいい?」
 石津は肩をすくめながらいった。
「データをいただきたい。それだけです」
 田尻は石津の眼を見ながらいった。その顔に笑みはなかった。
 石津もその視線をしっかりと受けとめる。
 しばらくしてから石津は濱本の顔を見た。
 濱本は軽く咳払いをすると、MacBook Proの画面を閉じた。
 田尻が顔を濱本の方へ向け座り直した。
「いいですか」
 そういってMacBook Proに手を伸ばそうとした。
「いや、デリケートなものなのでね。わたしがやるよ」
 濱本はそういってMacBook Proの上に両手を置いた。
 そのやり取りを見ていた沢口は一歩近づくと、テーブル越しに濱本を睨みつけた。
「まさか、もう駆け引きはなしですよ」
 田尻は石津の方を見て口を開いた。
「ああ、もう追いかけっこはやめだ」
 石津はゆっくりと頷いた。そのまま立ち上がる。
「ひとつ確認したいことがあるんだが、俺たちがここにいることを突き止めたということは、左手の方にもわかっているのか? それとも国家安全保障局を代表してふたりが来たということなのか?」
「いえ、保安課は保安課で独自で動いているようです」
 田尻も立ち上がりながら答えた。
「ということは、おっつけやつらもやってくるかもしれないということか」
 石津は尋ねた。
「ですから、いっしょに行動していただければ、身の安全は保証します。さぁ、メモリカードを渡してください」
 田尻は頷きながら、手を差しだした。
「身の保証か」
 濱本は皮肉っぽくつぶやくと、MacBook Proの右側のUSBポートからUSBメモリをそのまま抜いて立ち上がった。
「それにカードは入っているんですね」
 田尻は強い口調で確かめるようにいった。
「ああ」
 濱本は右手でUSBメモリをちらつかせた。
 その瞬間、沢口が思いきり上体を伸ばしてUSBメモリをつかみ取ると、脱兎のごとく逃げ出した。
 しかし、その足下に近藤がタックルをくらわせた。
 ふたりは縺れるように床に倒れると、転がりながらもみ合いをはじめた。
 体格からみれば明らかに沢口の方が有利のはずだったが、近藤も負けてはいなかった。子どもの頃から取っ組み合いの喧嘩をよくしていたといっていたのは、どうやらほんとうのことだったようだ。子どもの頃に身につけた所作はいつまでも生きる。石津は妙なことに感心していた。
 USBメモリをふたりは取り合う。近藤が奪いかけたところで、沢口がその手を叩くと、USBメモリは床を滑るようにして壁際まで飛んでいった。
 石津が歩み寄ろうとしたところで沢口はいきなりグロック一九を抜くとトリガーを引いた。
 銃声が店内に大きく響き渡る。
 その瞬間、ざわめきは止まり、奇妙な静けさが漂った。
 近藤が自らの腹を押さえてぼんやりと座っていた。
「沢口!」
 田尻の怒号が響いた。
 店内に金切り声が響く。女性の悲鳴だった。トレイが落ち、カップが割れる音も続く。
 石津がその音に我に返ると近藤はその場で蹲っていた。
 すでに沢口の姿はない。USBメモリと共に消えていた。
 濱本が近藤のところへ駆け寄ると、その上体を起こして様子を確かめる。腹の部分を押さえた濱本の右手が近藤の血でぐっしょりと濡れている。
 石津は憤怒の形相で田尻に詰め寄った。思わず胸ぐらを掴む。
「なにが、身の安全だ」
 その声は怒りで震えていた。
「申し訳ない」
 田尻にも予測できなかったことが起こってしまったようだ。その表情から血の気が引いていた。
「お前たちはなんのために存在している? こうやって一般人を撃つためにグロックをぶら下げているのか?」
 石津の勢いに押された田尻はなにも答えず、しかし、石津の手をふりほどくと、改めて石津の眼をじっと見た。
「まず、彼を」
「ああ」
 石津はその視線を受けとめたまま頷いた。
 田尻は近藤の腕を肩に回すように抱えると、意外なほどのスピードで店を出た。石津もそれに続く。濱本はテーブルの上に置いたままになっていたMacBook Proを手にすると店を出た。
 店の中はもちろんだったが、本館の中も逃げ惑う人たちでごった返している。女性客は悲鳴を上げながら本館の外へと走り、男たちは車に飛び乗るようにしてこの場を去ろうとしていた。
 遠くでパトカーのサイレンが鳴り響き、少しずつ近づいている。
 人波をかき分けるようにして車に辿り着くと、石津がレガシーのドアを開け、田尻が後部座席に近藤を座らせた。田尻はそのまま近藤に付き添うように車に乗り込んだ。
 石津は運転席に座ると、キーを捻ってエンジンをかける。
 濱本はナビシートに転がり込むようにして乗り込んだ。
「課長を」
 田尻はそのまま携帯で連絡をとる。
「なにを考えているのか、あいつ……」
 石津は乱暴に車を発車させた。高速へ戻るための側道へと入っていったところで、黒のアコードが入れ違いに駐車場へ入って来るのが見えた。
「どうなってるんだ?」
 石津は首を捻った。
「課長、沢口がメモリを奪うために発砲しました。そうです、例の三人のうちのひとりが撃たれました」
 濱本は身を乗り出すようにして後部座席の近藤の様子を見た。ぐったりとして、すでに意識がないように見えた。
「近藤……、どうしてお前まで……」
 濱本は思わずつぶやいた。
「どうすればいい?」
 ハンドルを握った石津は後ろにいる田尻に訊いた。
 車は大きく円を描くようにして本線へと合流するところだった。
「このまま新宿へ向かえますか? 局で手配は済ませてあります」
 田尻が答えた。
 石津は頷くと、東京方面の本線に合流した。
「急げ」
 濱本が石津をせかす。
「ああ、判ってる」
 石津は頷いて答えた。
 バックミラーで田尻を確認すると、しかし田尻の顔から表情が消えていた。
「どうした! 近藤は?」
 石津は大声で訊いた。
「残念ですが、急ぐ必要はなくなりました……」
 田尻が溜息とともに小声で答えた。
「なんてことだ……」
 石津はそういいながら、ハンドルを右の握り拳で何度も叩いた。

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