夏海と拓海

夏海と拓海 8

 次の日。
 午前中は葉山の自宅にいた。来客があるから出かけないでほしいと母にいわれていたからだ。
 Tシャツにカットオフしたジーンズを穿いて、ベッドルームを出た。そのまま二階へ下りると、キッチンへ向かった。
 食事の用意を手早くする。クロワッサンにサラダ、そしてフルーツ。大きめのカップにたっぷりとカフェ・オレを注ぐ。
 今朝はウッドデッキで朝食を摂ることにした。
 朝陽を浴びてキラキラと輝く海を遠くに眺めながらの朝食もいいものだ。
 海は昨日までと違ってフラットなものになっている。 しばらくはクルージングを楽しむことになるのかな。 のんびりと食事をすると部屋へ戻った。
 机の上に置いてあるiPadを手に、ベッドに寝っ転がる。アプリを起ち上げて、YouTubeの画像を眺めた。もちろんサーフィンのムービーだ。お気に入りのものがいくつもあって、暇なときにはそれを眺めて過ごすことが多い。
 画像を画面いっぱいに表示させると、プロサーファーたちのライディングを収めた映像を観ていく。ボトムターンやチューブライディングを観ながら、昨日のことを思い出していた。
 ショウさんのライディングはいつもポイントを押さえた切れのあるものだった。テイクオフのタイミングや、ターンするときのパドルの使い方なんかを思い出してみる。
 頭の中で自分のライディングと比べてみた。
──やっぱりまだヒヨッコかな。
 そう呟きながら、拓海のライディングも思い出してみた。
──あいつ、頑張ってたよね。はじめてのサーフィンなのに。
 ノックする音が響き、ちょっとよそ行きの格好をした母がそっとドアを開けた。
「夏海、挨拶してくれる?」
 母はそういって首を傾げた。
「うん、いいけど」
 わたしは答えながらベッドから降りた。
「誰?」
 部屋のドアを閉めながらわたしは訊いた。
「昨日、話さなかったっけ? 写真集出すでしょ、その編集をやってくれてる人。お父さんが倒れたときもいろいろと面倒を見てくれた人なの」
 母は階段を下りながら答えた。
 ふたり揃って一階まで降りると、父の仕事部屋へ入った。
 滅多に足を踏み入れることのない部屋。いま主がいなくなって重い空気に支配されていた。子どもの頃からこの部屋へ入るときはなぜだかちょっぴり緊張していたっけ。
 部屋に足を踏み入れると、父の真剣な顔を思い出してしまう。仕事中はどちらかという厳しい顔をしていることが多かった。
「長瀬さん、娘の夏海です」
 窓際にあるデスクと向かい合うようにして置いてある二脚の椅子の片方に男が座っていた。
 母の声に促されるように立ち上がると振り向いた。
「長瀬です、長瀬琢也」
 そういって男は右手を差しだした。
「貝津夏海です」
 わたしはその手をそっと握った。
 ショウさんと同じ歳ぐらいだろうか。母よりは下のようだ。きちんとスーツを着ていた。
「駿也さん──貝津さんからいつも話を聞かされていたので、初対面のような気がしないけど、思っていた以上に綺麗なお嬢さんだ」
 長瀬さんは笑顔でいった。
 けど、わたしはどう答えていいかわからず、思わず母の顔を見た。
「まだまだ子どもですよ」
 母がわたしの代わりに答えてくれた。
「夏海、こっちに来て」
 母はそういうとデスクの向こう側へわたしを呼んだ。
 デスクの上にはMacBook Proが置いてある。その向こう側には二十七インチのモニタがあり、Macの画面がそのまま映るようになっていた。
「これ、お父さんが撮った写真」
 椅子に座った母がMacを操作して、写真をひとつひとつ順番に表示させていった。
「今度の写真集は、駿也さんがこれまでやってきた仕事の総まとめの意味もあったんです。ハワイの景色だけでなく、そこに集まるサーファーたちもていねいに撮っていた」
 机の向こう側に座っていた長瀬さんがわたしに説明をしてくれた。
「だからこれ……」
 母がそういって新しい写真を出した。
 わたしの写真だった。まだサーフィンをはじめたばかりの頃のわたし。SUPをはじめた頃のわたし。そしてつい最近のわたし。
 それからわたしたち家族の写真。
 ダッドとマム、それにわたし。笑顔が溢れている写真だった。
 写真を見ているうちに頬を暖かいものが零れ落ちる。知らないうちにわたしは涙を流していた。
 哀しい涙じゃない。でも、大切な、とても大切ななにかを失った涙……。
「夏海……」
 母が強くわたしの手を握った。
「マム……」
 わたしもその手を握りかえした。
「まだどの写真を載せるのか最終的に決めてはいませんが、できたらご家族の写真もどこかに載せたいと思っています」
 長瀬さんがわたしたちの顔を見ながらいった。
「彼が、貝津がそれを望んでいたのなら、ぜひお願いします」
 母はそういって頷いた。

 午後、わたしはバッグを持ってオーシャンズに向かった。
 ガラス戸を開けるとショウさんが机のところにぼんやりと座っていた。
「どうしたの?」
 わたしの声にちょっと驚いたようにショウさんが振り向いた。
「あっ、昔の知り合いがさっきまでいてさ」
 そういってショウさんは頭を掻いた。
「もしかして、長瀬さん?」
 わたしはそういって首を傾げた。
「あたり。夏海ちゃんのところにいってたんだって? その帰りに寄ってくれたんだ」
 ショウさんが頷いた。
「やっぱり知り合いなんだ」
「というか、ぼくの元部下。優秀なやつだから、いい写真集ができるよ」
 ショウさんが優しい笑顔でいった。
「うん」
 わたしも頷いた。
 レインボーカラーのビキニに着替えるとわたしは浜へ出た。
 太陽の輝きがまだまだ夏が続くことを教えてくれそうな、そんな陽気だった。海の輝きが眩しくて嬉しい。でも、もう波はなかった。
 今日はのんびりとクルージングを楽しむつもりだった。
 なんの気なしにいつも拓海たちが座っているあたりへいってみた。
 カジ君しかいなかった。
「カジ君」
 声をかけると彼はすぐに振り向いた。
「あ、夏海ちゃん」
 そういいながら振り返るなり、その場で正座した。
「どうしたの、ひとり?」
 その様子がすこしおかしくて笑いながら訊いた。
「はい、ひとりです。拓海は今日は部活を休みました」 カジ君がなにかを読み上げるように答えた。
「なにかあったの?」
 わたしはそういいながらカジ君のとなりに腰を下ろした。
「膝、痛めたって」
 そういうとカジ君は海の方へ向き直り、体操座りをした。
「膝? 大丈夫なのかな」
 わたしも海を見る。
「詳しくは知らないけど、今日は走れそうにないからって」
 カジ君はわたしの方を見ていった。
「サッカーだっけ?」
「そう」
 カジ君は頷いた。
「いっぱい走るの?」
 わたしはなにげに訊いてみた。
「オレ、あっ、ぼくはサイドバックっていってディフェンスの位置に普段はいて」
 カジ君はそういいながら砂の上に絵を描きはじめた。
「夏海ちゃん、サッカーのことよく知ってます?」
 カジ君が尋ねてきた。
「ゴールすれば点が入るんでしょ。それぐらいしか、知らない。ごめん」
 わたしは素直にいった。
「いいんだよ、まったく知らない子だっていっぱいいるから」
 そういいながらカジ君は絵を描く。
「ここが自分たちのゴール」
 そういって手前のところを指さした。
「うん」
 わたしは頷いた。
「右のサイドバックなので、オレはいつもここ」
 そういって右のライン際の手前のところに丸を書いた。
「拓海はトップ下」
 今度は真ん中にあたり、センターラインの近くに丸を書いた。
「トップ下……」
 わたしは呟いた。
「攻撃の起点になるポジションなんだ。要といってもいいかな」
 カジ君はそういってわたしの顔を見た。
「相手のボールを奪うと、そのボールがオレのところに来る」
 カジ君はゴール前から指で線を引いていった。
「そしたらオレはダーッと前に走る」
 今度は自分の丸のところから真っ直ぐ縦に線を引いていく。
「走ってくの?」
 わたしが尋ねると、カジ君は頷いた。
「もうね、全速力で走るんだ。ドリブルしながら」
「ドリブルか」
 わたしはぼんやりと頷いた。
「で、途中で拓海にパスをする」
 今度は拓海のポジションのところまで線を引いていった。
「じゃ、つぎは拓海が走る番?」
 わたしは尋ねた。
「ところがそうじゃないんだな。つぎにどういう攻撃をするか、あいつは考える。それからボールを持ったまま周りを見て誰かにパスしたり、ゆっくりとドリブルして前にいったり、またオレにパスしたりする」
「せっかくカジ君が走ったのに?」
 わたしは首を傾げた。
「そうなんだよ、あいつは滅多に走らない」
 カジ君が大きく頷いた。
「それで?」
「オレのところにボールが来たら、また前にダーッと走って相手のゴールラインぎりぎりのところまでいって、センタリングをする」
 カジ君はそういうとわたしの顔を見た。
「センタリング?」
「そう相手のゴール前にね、味方の選手がシュートできるようなパスを出すんだ」
「カジ君ってすごいんだね」
 わたしはちょっと感心していった。
「それだけじゃない。シュートし終わったら、オレはまたダーッと元の位置まで全速力で戻る」
 カジ君はまた頷いた。
「どうして?」
 わたしはまた訊いた。
「だって、オレがいない隙をつかれて相手に攻撃されたら大変だもの」
 カジ君は自分にいい聞かせるようにいった。
「いろいろあるんだ、そのポジションで」
 わたしはなんとなく解った気がしていった。
「昨日、なにかあったの? 膝痛めるようなことが」
 今度はカジ君が訊いてきた。
「昨日は、ただサーフィンをしただけだよ。練習にちょうどいいサイズの波が海岸にも来たから。でも拓海ははじめてのサーフィンだったから」
 わたしはそういいながら昨日のことを思い出してみた。サーフィンが見た目以上に体力を使うことは解っているけど、怪我するようなことがあったのかしら?
 確かに、熱心にチャレンジしていたけど……。
「サーフィンか、いいなぁ」
 カジ君がちょっぴり寂しげにいった。
「船酔いだって?」
 わたしは訊いてみた。
「うん、夜、気持ち悪くなっちゃって……」
 カジ君はそう答えると俯いた。
「拓海に訊いたの?」
 カジ君がわたしの顔を見た。
「ショウさんに」
 わたしは答えた。
「そうだ、夏海ちゃん、お願いがあるんだけど」
 カジ君はそういうとまた正座した。 

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