夏海と拓海

夏海と拓海 7

 部活を終えると、いつものようにカジとふたりで東浜に腰を下ろして腹ごしらえをした。
 もう八月も終わる。
 それでも逗子の海岸はいつまでも夏のままのような賑わいをみせていた。陽射しも、海の輝きもまだまだ強烈なまま。まだしばらくは暑い日が続くだろう。
 サンドウィッチを食べ終え、カジと浜で別れるとぼくはクラブハウスへと向かった。
 国道をくぐり抜け、歩道を歩いて、すぐに右に折れる。その奥まったところにクラブハウスはある。
 ガラス戸を開けると、いつもとは違って人が多かった。
「やぁ、拓海。こっちにおいでよ」
 ベンチに座っていたショウさんが立ち上がって手招きした。
「はい」
 ぼくは返事をするとベンチに向かった。
 ショウさんの向かいには夏海が座っていた。
 髪を後ろで束ねて、今日もラッシュガードを着ていた。その夏海を囲むように何人かの人たちが屯していた。
「彼?」
 夏海のとなりにいた男の人が口を開いた。クラブハウスで何度か見かけた人だった。このクラブの常連の人らしい。
「そう、駿さんのお孫さん」
 ショウさんがそういってぼくの顔を見た。
「あっ、河西拓海です」
 ぼくはお辞儀をした。
「そうか、夏海ちゃんの甥っ子だね」
 そういってその人は微笑んだ。そのまま立ち上がると、ぼくに席を譲ってくれた。
「どうも」
 ぼくは挨拶をして、夏海の隣に座った。
「なんだか人が多い」
 ぼくは夏海にいった。
「うん、今日はね、波があるでしょ。サーフィンができる日はどうしても人が多くなるんだ。みんな好きなんだよ、波に乗るのが」
 夏海が笑顔で答えた。横顔がとても綺麗だった。
「じゃ、いくか」
 僕に席を譲ってくれた人が声をかけると、それまでそこにいた人たちが出かける用意をはじめた。パドルを手に、思い思いに話をしながら出ていく。
 あっという間にクラブハウスの中は静かになった。
「拓海、着替えておいでよ。今日はサーフィンやってみよう」
 ショウさんがそういって立ち上がった。
 シャワールームで水着に着替えると、自分のボードを持って、そのまま浜へいった。
 東浜ではショウさんと夏海が待っていた。
 先にクラブハウスを出ていった人たちの姿はなかった。
「みんなは?」
 ボードの準備をしている夏海に訊いた。
「みんなは大崎。あっちの方が波が大きいでしょ」
 夏海はそういってぼくの顔を見た。
「拓海は、まず波打ち際で練習だ。はじめてでしょ、波に乗るの。いきなり大崎はちょっと厳しいと思う」
 ショウさんがそういうなりぼくにパドルを渡した。
 ぼくはただ頷いてパドルを受け取った。
 ボードにリーシュをセットすると右足につける。
「聞いたよ、ショウさんのボード使ってるんだって?」
 リーシュをつけ終わった夏海がぼくに訊いてきた。
「そう、マジでやるならってことで譲ってもらった」
 ぼくは立ち上がると夏海に答えた。
「ダッドも同じボード持ってたんだ。Converseのナイン」
 夏海はそういうとボードを抱えて、海へと入っていった。
 ぼくも続いて海に入る。
「最初は座ったままで乗ってみよう。いいね?」
 ショウさんが近くまで歩いてきてぼくにいった。
「まずぼくがボードを押さえているから、座ったまま乗っていて」
 そういってぼくのボードを引っ張っていく。
「波って、三つか四つぐらい連なって来るんだ。これをセットっていってる」
 歩きながらショウさんがいった。
「はい」
 ぼくはボードに正座したまま頷いた。
「大崎を見てご覧、いま波が来てるでしょ」
 そういってショウさんは指さした。
 確かに波が来ていた。上のところが白くなっている。その波が三つほど連なっているのがわかった。
「大崎に来た波がだいたい九十秒ぐらいで逗子の海岸にやってくる」
 そういうとぼくの顔をみた。
「じゃ、いくよ。タイミングを見てぼくがボードを推すからね」
 ぼくが頷くとショウさんはボードのノーズを海岸の方へ向けた。
 しばらくするとボードが波に持ち上げられるのがわかった。
「この次、いくよ」
 背中からショウさんの声が聞こえた。
「いまだ」
 ボードの後ろ、テールが持ち上がりかけた瞬間、ショウさんのかけ声が聞こえた。
 ボードの下からバチバチという音が聞こえてくる。波がボードに当たる音だ。
 気がつくと、ぼくはテールを持ち上げられたまま波に運ばれていた。
 波打ち際が近づいてくる。
 ぼくはボードに座ったまま運ばれていった。
 とても不思議な感じだった。
 波打ち際でボードから降りると、いきなり心臓の鼓動が聞こえてきた。
 ドキドキしていた。
 でも、これは悪いドキドキではなかった。
 ぼくはボードを沖に向かって浮かべ直すと、その上に座ってショウさんが立っているところまでパドルを漕いで戻った。
「どうだった?」
 ショウさんが笑顔で尋ねた。
「なんだかとても不思議な感じです。滑っていくような感じで、岸がどんどん近づいてきて」
 ショウさんは大きく頷くと、口を開いた。
「次は自分でタイミング測ってテイクオフしてみて」
「はい」
 ぼくは頷くとパドルを握り直して、横から波を受けるようにして待った。
 沖を見る。波が来ていた。三つのセットだ。
 パドルを漕いで、ターンをするとノーズを海岸に向ける。
 テールがぐっと持ち上がる。
 さらにパドルを漕いでこの波にスピードを合わせようとした。そのときボードのノーズがぐっと沈み込み、ぼくは前のめりにボードから落ちると波に巻かれてしまった。
 立ち上がると周りを見た。
 ボードを探す。ぼくのすぐ近くにボードが裏返って浮かんでいた。リーシュコードを引っ張ってボードをたぐり寄せると、ひっくり返してボードを浮かべ直した。
 失敗した。
 ぼくはボードの上にまた正座するとショウさんのところへ漕いでいく。
「パーリング」
 いつの間にかとなりに夏海がいた。ぼくの顔を見ながらいった。
「え?」
 ぼくは訊き返した。
「だからパーリング。ノーズが突き刺さった感じになったでしょ。もっと後ろに体重かけないとだめよ。座ったままでパドルを漕ぐと前屈みになるから、どうしても前が沈むの。もっと後ろに座った方がいいわ」
 夏海が真面目な顔をしていった。
「わかった」
 ぼくはただ頷いた。
「パーリングしちゃったね。海の底の真珠でも探してなって意味なんだけど、もう一回ね」
 ショウさんがいった。
 ぼくはしばらく波を待つ。沖をじっと見る。
 来た、今度は四つのセットだ。
 パドルを漕いでターンをする。テールが持ち上がると、前屈みにならないように気をつけながらパドルを漕いで、波に合わせた。
 いい感じだ。ノーズが沈みこんでいくが、さっきとは違ってボードが波に運ばれていく。
 海岸を見た。そのとき海岸が正面に見えないことに気がついた。ノーズがすこし横を向いている。
 あっと思ったときには今度はボードごと波に巻かれていた。
 またすぐに立ち上がる。
 失敗した……。
 ボードの上に座り直して、ショウさんのところへ漕いでいった。
「ちょっと横向いちゃったね。座ったままだと波に対してボードを垂直に当てないと巻かれちゃうんだよね。パドルを漕いでスピードを合わせるまでにどれぐらいボードが向きを変えるかを考えてテイクオフしてみよう」
 ショウさんは手を使いながら説明をしてくれた。
 ぼくは大きく頷くと、また波を待った。
 波が来るタイミングをみて、すこしずつパドルを漕いでいく。ボードをターンさせながら、波が来る瞬間を待つ。
 テールがぐいっと持ち上がった瞬間、ボードはベストな方向を向いていた。さらにパドルを漕いでスピードを合わせる。後ろからボードごと押される感じで加速する。
 テイクオフ。
 ノーズがすっと沈み、ボードがそのまま滑るように進んでいく。
 波に、乗っている。
 ぼくはボードの上に手をつくとそのまま立ち上がってみた。右足をうしろに引く。
 波を捉えたボード。
 足下からバチバチという音が聞こえていたはずなのに、その瞬間、世界から音が消えていた。
 景色も見えない。
 照りつけていた太陽の輝きも、それを受けて反射する海の煌めきも見えない。
 前を見るとそこには逗子の海岸があった。
 それがぐんぐんと近づいてくる。
 まるで空を飛んでいるようだった。
 ぼくは、とても大切ななにかを感じたような気になった。それがなんなんのか解らなかったけど、神聖で大きななにかを受け取ったような気がした。
 あっと思うともう海岸だった。
 ボードから降りると、ボードはそのまま波打ち際に打ち上げられた。
 両膝がガクガクと震えていた。
 でも一番震えていたのはぼくの心だった。
 気がつくとまわりの音がぼくに襲いかかるように押し寄せてきた。
 ぼくはきっとまったく新しい世界の扉を押し開けたのだ。
 こんな感覚を味わったのは生まれてはじめてだった。
 サッカーのゴールを決めたときの喜びとはまた違う感覚。いや、これは感動といっていいんだろう。ぼくの心が震えているのは、感動しているからなのだ。
 新しい世界を垣間見た感動。
 ぼくはしばらくの間なにもできずそこに突っ立っていた。
 また、鼓動が聞こえてきた。すぐ耳元で聞こえる。
 ぼくは大きく息を吐くとボードを波打ち際に浮かべた。
 ボードの上に座ってショウさんのところへ戻る。
「いい感じだったよ」
 ショウさんがにっこりと笑った。
「はい」
 ぼくは大きく頷いた。
「もう大丈夫。いろいろと試してみるといい」
 ショウさんはそういうと続けた。
「ただ、いくつかルールがあるからそれは覚えておいて。サーフィンを楽しむためのルールだから。まずひとつ、絶対に波乗りをしている人の前で波に乗らないこと。その波とコースは最初に乗った人のものだから邪魔をしちゃ駄目だ」
「なるほど」
 ぼくは頷いた。
「前乗り禁止。世界中のどこでもだよ」
 ショウさんは念を押すようにいった。
「絶対ですね」
 ぼくは答えた。
「それから、これは特に大崎での注意だ。沖に出るときには大きく迂回して、人の邪魔をしないように。大崎は波ができるポイントが限られているから、そのコースを遮られるとみんなが困ることになる。いいね」
 ショウさんはそういうとまたにっこりと笑った。
「さあ、もっともっと乗ってみて」
「はい」
 ぼくは頷くと、ふたたび波を待った。
 そこへ夏海が近づいてきた。
「ナイスライド。いい感じだったわ」
 夏海が笑顔でいった。
「うん、とても気持ちよかった」
 ぼくは素直に頷いた。
「同じ波は二度と来ないから、とにかくいろいろな波に乗るといいわ」
 そういうと夏海はぼくの目の前で綺麗にターンをして、波を捉えた。
 ノーズがすっと沈みはじめると揃えていた右足を後ろに引いて腰を落とす。とても自然なテイクオフだった。 そのまま細かなターンをして海岸まで乗っていく。
 ナイスライドって、こういうのをいうんだろう。
 なんて綺麗に波に乗るんだろう。
 サーフィンを自分でやってみて、改めて夏海の波の乗り方がとても自然でどんなに素晴らしいものなのかが解った気がする。
 そしてどうしてサーフィンを楽しむのかも。
 その日の午後、目いっぱいぼくはサーフィンを楽しんだ。いや、楽しんだといういい方は正確じゃないかもしれない。トライしたといった方がいいんだろう。
 しばらくは座ったままで何本もチャレンジして、何度も落ちて、巻かれた。
 途中からは立ったままで乗ることにした。
 波を待つ間、横波を受ける形になるので、波に乗る前に何度も海に落ちたけど、それでも二三本納得のいくライディングを楽しむことができた。
 とても気持ちがよかった。
 海から上がってリーシュを外すと、ぼくはそのまま砂浜に座り込んだ。
 へとへとになっていた。
 膝がガクガクいっている。最初のガクガクは感動したガクガクだったけど、いまはただ疲労したガクガクだった。
 サーフィンがこんなに体力を消耗するものだとは思わなかった。もっともまだまだ下手だからなんだろうけど。
 クラブハウスに戻り、シャワーをたっぷりと浴びて制服に着替えると、ベンチに座って大きくため息をついた。
「どうだった?」
 カウンターでロッカーの鍵を整理していたショウさんが尋ねてきた。
「うん、最高だった」
 ぼくは大きく頷いた。
「何本かとてもいい感じで乗れてたね」
 ショウさんも頷いてくれた。
「サーフィンができる日は人が多いのも納得」
 そういってぼくは笑った。
 そこへシャワーを浴び終えた夏海がやってきた。
 髪をバスタオルで拭いている。なんだかその姿を見ているとドキドキしてしまった。
「いい日だったわ」
 夏海が笑顔でいった。
「そうだね」
 ショウさんが答えた。
 ぼくも口を開きけたそのとき、ふいに鼻から水が零れ落ちてきた。
 ボタボタと水が零れていく。
 鼻を押さえるけど止めることができなかった。
「不思議だろう、しばらくすると身体の中に入った水が勝手に零れるんだよ」
 ショウさんは笑いながらいった。
 まだ零れてる。
 それを見て夏海もくすりと笑った。
「わたしもやるから気にしないで」
 夏海のそれは優しい笑顔だった。

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