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読書ノート『正義と差異の政治』I.M.ヤング

先日、I.M.ヤングの『正義と差異の政治(Justice and the Politics of Difference)』をどうにかこうにか読み終えた。

原著は1990年に発表されたものだから現代における古典という位置づけで、よく引用・参照されている(らしい)。こういう政治哲学の原典(と言っても翻訳版だが)をしっかり読んだのは、ぼく自身は初めてで、前提知識も十分ではなかったので読み進めるのにだいぶ苦労した。(中断を挟んで1年以上かかった読書会で一緒に読んでくれた方々のおかげです…。)

内容面では、意外にも(?)最終章では都市生活や広域政府など都市デザインの文脈からも検討すべき内容が語られていたし、30年経った現在でも諸問題やそれへのアプローチを考える際に参考になりそうな理論的鉱脈みたいなものが随所に見られた。他方、専門外のムヅカシイ本の読み方、という面でも大変勉強になったので、忘れないうちに雑駁な読書ノートを書いておくことにする。

まず、ヤングの正義論としてよく参照されるのは、概略以下のようなものだ。ロールズに代表されるような、社会的正義を道徳的に妥当な利益と負担の“分配”という意味に限定する「分配的パラダイム」に対してヤングは批判的な態度をとり、分配の問題には統合できない意思決定手続きや分業制、文化などの問題を含む不正義を説明するものとして支配や“抑圧”に注目する。そしてその抑圧とは、「搾取」「周縁化」「無力化」「文化帝国主義」「暴力」の5つの側面を持っている、とする。この部分が“抑圧の5側面”のように定式化されてヤングの主張としてよく紹介されている(らしい)。実際、本書でも冒頭からこの主張がなされ、1,2章で詳説されていくが、ヤング自身エピローグであらゆる社会的文脈で不正義を支配と抑圧のカテゴリーによって理解するのは妥当だとしつつも、具体的な抑圧に関する5つの批判については、西洋社会以外では再考や組み替えが必要だとしている。というわけでここは定式的に捉えるというよりは、それらが含む社会的構造や関係の問題に注目することが大事になってきそうだ。

ただ、正直なところぼくのように専門外の人間からすると、初見だと本書の前半で展開される抽象的な議論は展開を追うだけで苦労した。厳密な論理展開よりも現実を見つめるための視座みたいなものを求めているのであれば、後の章で展開される現実における不正義への対抗手段の妥当性の検討のような部分の方が読み進めやすいだろう。以下はつまみ食い的に印象に残っている部分について(特に印象が残っている最後の方から逆順で)。

第8章:都市生活と差異

  • 社会的存在論や自己理解を考えるさいに、リベラルな個人主義への代替案としてのコミュニティが提示され、それらは対置するものとして論じられる。しかしヤングはこのリベラルな個人主義とコミュニティからなる二分法を疑問視し、いずれも対立の基礎となる共通の論理が潜在しているとする。つまり両者は相反するやり方ではあるが、「差異を否定し、複数性と異質性を統一したいという欲望を伴っている点で共通している」というのだ。このあたりは確かに納得するところだ。そもそもコミュニティはなんらかの閉鎖性が存立の要件になっている面がある。本文中でサンデルを引いて「コミュニティが深まるほど、正義の優先性は失われていくであろう」と言っているように、コミュニティにおける公正さや正義をいかに担保するか、というのは個人的にも関心がある。

  • そこで、ヤングがリベラルな個人主義とコミュニティ両者の理念への代替案として提示するのが「都市生活の規範的な理念」で、都市生活を所与の経験として理念的な長所を導き出せるという(ここでの理念は、いまだ実現していない現実の可能性をさす)。つまり都市の長所ないし理想として、(1)排除なき社会的差異化、(2)多様性、(3)(広義の)エロティシズム、(4)公開性をあげている。……のだが、本書が執筆された30年後の現在、これらの理想は実現に向かう部分もあれば、大きく反対方向に進んでしまっている部分もありそうだ。例えば「公開性」という点で、「都市の集団的多様性は、公共空間において明らかになることが多い」とか「都市は、街路、公園、広場といった重要な公共空間を提供し、人々はそこで共に立ったり座ったりして交流し、話をし、あるいはただお互いを目撃する」などが挙げられており、確かに近年の日本では公園など公共空間の整備が進められ利活用が図られている一方で、個人的には公共空間の商業空間化に伴う排他性や選択性のような作用も見られることは気になる点の一つだ。

  • またヤングによると、先に述べたような分配の不平等だけでは見えない、分配の不正義を生み出す社会構造や過程、関係などの問題は、都市における社会的不正義の文脈でもっとも良く示されるという。そうした過程が支配や抑圧に寄与する3つの側面として、(a)都市の集権化された企業と官僚の支配、(b)自治体における意思決定構造と隠れた再分配メカニズム、(c)都市内部や都市と郊外の間での隔離と排除の過程が挙げられている。
    →このあたりの議論の詳細は省くが、現在でもその通り、と思う部分が多い。同時に、現代であれば、よりグローバル化が進展し不正義や不公正がより不可視化されている点が強調されるだろうし、環境的公正や気候正義を踏まえた議論がなされるだろう。近年の動向を見てみると、都市レベルの民主主義や不公正への対抗は、当然ながら国家やグローバル企業を相手取ったときには部が悪く、弱く脆い。一方で、フィアレス・シティ(Fearless cities)や、先輩が研究していた参加型民主主義を推進する都市間ネットワークなど、都市レベルの民主的な運動やネットワークには、大きな希望も見出せるだろう。

  • 章の最後でヤングは、支配と抑圧を打破するために意思決定の民主化が必要であり、この点では多くの参加型民主主義の理論家と意見が一致しているという。一方で、それがすなわち都市の意思決定過程の分権化やコミュニティ創出と同一視されていることを批判し、「身近にある近隣ちくやタウンを代表するメカニズムを伴った広域政府によって」社会的正義がもっとも実現される、と主張する。ざっくりと全体像を描けば、ヤングは地区集会(neighborhood assembles)を民主的な参加の基本的な単位とし、上位にいくつかの階層構造を持つように再編するとともに、都市における問題を解決するために広域圏(経済的な単位かつ人々が自らの生活空間として帰属意識を持つ領域)が計画とサービス供給を担うことを想定しているようだ。このあたりは都市計画や都市デザインの文脈でよく語られる理想像的なところではあるので、ここも30年経ってどれほど議論や実践が進んだかというのは追ってみたいところだ(その実践的な解答が、ランディ・へスター先生の「エコロジカル・デモクラシー」と言えるだろう)。なお広域圏がどのようなサイズ感を想定しているのかは若干わかりにくいが、それはアメリカ合衆国と日本の文化的・政治制度的・地理的な違いによるところもありそう。ランディ先生の「エコロジカル・デモクラシー」に即して考えれば、この広域圏は例えばひとつの流域圏くらいのイメージだろうか。

第7章:アファーマティヴ・アクションと能力という神話

  • ヤングによれば、人種差別と性差別はわたしたちの社会における「主要な抑圧の形態」であり、人種とジェンダーの不平等に関する議論では「多くの場合、機会の平等という問題に限定される傾向がある」。この章では抑圧される側の人々に対して優先的な取り扱いを行なうアファーマティヴ・アクション政策が正義に適うかを検証することになるが、ヤングは基本的にはこれを支持する。しかしヤングはその論拠を「歴史への補償または矯正」とするのは弱いとし、「現在の意思決定者たちの偏向・偏見を是正する」という議論により強い説得力を見出す。

  • ところで、こうした論法はディレンマを生み出す――現状維持は差別の存在を許すことになり、他方で優先的な処遇もまた差別であり、いずれにしても差別の存在を許すことになる――という指摘がある。これは日本でも「逆差別」のような言葉で耳にすることがあるだろう。対してヤングは、「非差別が正義の主要な原理だという想定を放棄し、かつ、人種的・性的不正義は差別という概念の下で語らなければならないとう想定をやめるならば、このディレンマは解消する」と喝破(?)している。つまりこれらの問題に対して、差別ではなくやはり「『抑圧』が、集団に関係する不正義を名指すための主要な概念なのである」と述べているのだ。ぼくはこの論理展開を始めて聞いたのだが、なるほどそういう理屈があるかと納得しつつもややテクニカル(屁理屈?)な感を抱いたのが正直なところだ。そのアプローチによって本当に抑圧が解消・緩和されているかが極めて重要で、そうでなければある種の“あって良い差別”と“悪い差別”を判定する権力が生じ、抑圧を助長する余地もあるように感じる。

  • なお、ヤングはアファーマティヴ・アクション政策に一定の評価を示す一方で、当然ながら単にそれを“やれば良い”と言っているわけではない。冒頭の主張の通り、正義の分配的パラダイムは「イデオロギー的な機能を果た」し、「それが所与と見なす制度的関係を暗黙のうちに支持してしまう」と述べている(例えば最近の日本社会における「ウチは女性比率〇〇%やってますから(by高い地位の中高年男性がドヤ顔で)」で満足してはダメなのだ)。すなわち、多くの場合アファーマティヴ・アクションは優遇される候補者が高い水準で資格要件を満たしていることを要求し、社会的環境や資源の欠如のために的確な能力を持つことが不可能な人々の機会の増大に直接的には役立たない。結局アファーマティヴ・アクションに関する議論が既存の枠組み内の地位の再分配に終始する限りでは、既存の構造を支えることとなるというのだ。

  • そしてその議論の根底には、地位が能力のある者に分配されるべきだという想定と、ヒエラルヒー的な分業が正義に適っているという想定を前提としているとし、章の後半ではこの前提とする2つの想定に対して批判する。本書出版から30年経過し、ネオリベラリズム的な価値観が浸透しきった現代において、この2つの想定はより強固で根深いものになっているように感じる。この後展開される、能力や実績の評価の妥当性や分業によって生じるヒエラルヒーなどへの考察、実践的な側面では職場内民主主義のあり方などが語られ、それぞれ現代の文脈と照らして読むと学ぶべきことが多かった。

あと何点か書いておきたいことがあるが、長くなりすぎたのでいったんここで終えることとする(続く…かも)。

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