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私たちは自分たちがどんな世界に生きているかを江戸時代の人よりも知らない。


Panasonicの100周年記念CM


去年の秋、Adobe MAX Japanに行ってきた。

その時1人の映像クリエイターが自分のCM作品を紹介していた。


これはPanasonicの100周年記念として作ったCMだった。

このCMが本当に良くて友達に紹介して見たりして、自分でもふと思い出しては何回も見てしまう。


前のブログで「広告から離れます。」と宣言したくせに、広告のことを考えるのはどうかと思うが、まあ考えてしまったものはしょうがないので書くことにする。

黒リスちゃんのブログでも好きなものは好きなままでいい、と書かれていたし。(心が優しくなれるので疲れた時に読むのをおススメする。)

Panasonicがどこの広告代理店と組んでこのCMを作ったのか、私は業界の人間ではないから分からないが、少なくとも社内の人間だけでこの広告を作っていることはないだろう。そもそも映像クリエイターが柿本ケンサクさんというフリーの人だ。

Adobe MAX Japanで私が聞いた講演がyoutubeにAdobe公式アカウントがあげていたので映像制作に興味がある人は見たら面白いと思う。ド素人の私でも面白かった。


映像制作の話にいきそうになったけど、今回のテーマは映像制作についてではない。


作り手が分からない食べ物たち


少し話は変わるが、以前コンビニに行った時にパンに手を伸ばしたときに、ふと、これを作っているのは機械か、と思ったことがあった。

私は中高の柔道部時代に飯トレと言って食べ物を残した者には重い罰則がある経験をしているため、罰則をくらわない今でさえ自分は食べ物を残さないように全力を尽くすし、目の前で食べ物を残されるとなんとも言えない気持ちになる。

罰則は嫌だったが、それがあったからこそ作り手に感謝してごはん最後の一粒まで食べきっていた。

しかし今大学生になって、飲み会や合宿に行くと必ず食べ物は残っている。それがまだ食べれるものがバケツに一斉に投入される様子を見るといたたまれなくなる。

きっと作り手が知っている人だったら、おなかが膨れている状態でもみんな食べるように努力するだろう。自分で作っているものだったら平気で捨てたりはしないだろう。


代理業としての広告


広告もこの作り手が見えない食べ物たちと似ているな、と思った。CMなどで発信者は見えていたとしても、そこに隠されているイメージ戦略は見えない。

さっきのCMがPanasonicと柿本さんだけなのか、広告代理店がいるのかは分からない。分からないが、自分がPR関連の会社でバイトをしたり、その業界の人から話を聞くうちに、広告代理店が想像以上に私たちの購買活動に関わりをもっていることだった。

自分がなんとなくいいな、と商品に対して思ったものがあるとすればそれはほとんどの場合が思っているのではなく思わされているものだ。TV CMやパッケージデザインなどの広告として分かりやすいものから時には企業そのもののブランディングまで全部代理業として成り立たせているのが広告代理店である。


よく、広告業の人はコミュニケーションのスペシャリストであるべきだ、と言われる。PanasonicのCMもできるなら自社だけでやればいい。しかしそれができないからスペシャリストである広告代理店に頼むのだ。(このCMが広告代理店が関わっているかは分からないけれど何かしらのCMには関わっているだろう)

今の時代、企業は良い製品を作っただけでは売れなくなってきた。なぜならPanasonic以外にも電球をたくさん作っている会社があり、消費者はその細かい性能の違いが分からないからだ。大事なのは値段くらいだろう。値段が拮抗して勝負がつかない時、プラスイメージがある企業を選ぶかもしれない。そのイメージを作っていくのが広告である。


2018年の日本の広告市場規模は世界第3位。デジタル広告が市場を拡大していき、世界規模でも総広告費は伸びている。

(引用元:http://www.dentsu.co.jp/news/release/2018/0614-009553.html

市場が伸びているというのは社会から必要とされているということだろう。なぜ必要とされているのか?それはただ作っても売れない時代に自分たちと他者商品との違いを伝え、自社商品を買ってもらう必要性が出てきたからではないだろうか。消費者が選べるほどものの種類が増えた。


「自由意志は存在しない」


哲学で「自由意志というのは存在しない」という言葉を聞いた時、衝撃が走った。

自由意志というのは、ある行為において自分が決定したと思って行動することだ。だが、大抵の場合は自己決定ではなく、決定させられている。

ざっくり言うとこんな感じ。

ある広告マンが「コピーとは読むつもりのない文章を読ませること」と言っていた。読む気がなかった文章を読み買う気がなかったものを買う。

この人が言っていたように、どうやって商品を人に買わせるかを企業側はずっと頭をひねって考えている。そうして必要とされてきた職業がマーケターであったり、リサーチャーであったりアナリストであるような人の行動を考えるプロフェッショナルである。それが集まったチームでCMを作成したり、PRを考えていく。そんな人たちがいる世界に私たちはいるのだ。自分が何も考えないで買ったものには誰かの策略が必ずあるだろう。


私たちが生きている世界のことについて


長くなったのでまとめることにする。

私たちは自分たちがどんな世界に生きているかを江戸時代の人よりも知らない。

ネットも電気もなかった江戸時代に生きていた人たちは自給自足をしたり、隣近所で食べ物を交換したりして生きていた。それがその時代の人たちの”世界”だった。

しかし、今はネットも電気もある。地球の裏側をテレビを通してオンタイムで知ることができるし、電話を通じて全く知らない人と通話することもできるようになった。これがいま私たちが生きている”世界”だ。私たちは自分を生きるための一番大事な燃料としての水や食べ物でさえ、どこから作られたのか、誰が作ったか知らずに飲み食いをして生きている。

全てシステム化されている。

システム化された社会の中で私たちは生きている。

システムにしてしまえば社会はまわる。

しかしそこに人の意思はなくなってしまう。


この前、「林先生が驚く初耳学!」で高学歴ニートvs林修の番組でこんなやりとりがあった。

慶応ニート「みんな自分のやりたいことだけしてお金を稼げばいい」
林先生「みんなが出すゴミを燃やす焼却炉を1基約200億円かかる。それを誰が出すか?善意でお金を払ってくれる人が一定数いても人数が足らないですよ」
慶応ニート「それはどうして?」
林先生「それは我々が非常に社会的コストがかかる暮らしをしているからですよ」

私立大学トップで充分学んだはずの慶応生も自分の暮らしがどのようにして成り立っているのかを知らない。

この例を出してこの慶応ニートを揶揄したいわけではない。今生きている人のほとんどが自分の生活がどういう状況で成り立っているのか知らずにいる。人の目で見ることができないほど、頭では考えられないほど、ナチュラルに張り巡らされた密接に絡まり合う蜘蛛の糸のような場所で私たちは生活しているのかもしれない。


日本の生活水準は高いのにあまり幸せそうでないという得体の知れない恐怖の一因はこの複雑に構造化されたシステムによるものなのかもしれない。


こんだけシステムシステムと言ってしまうと、ここまで読んでくれた人は「は?結局システム完成されてるんだからもう無理じゃん!はい!自分にはなにもできないから放棄!放棄~~!!」と言ってすぐさまこのブログをスワイプしようとしただろう。


スワイプしようとした人のために、この社会でどう生きていけばいいのか書いておいた。

私個人的には日本からこの得体の知れない恐怖を取り除くというのが目標なので「得体の知れない」部分を深堀していってシステム化された社会ということにたどり着いた。システム化された社会はもうそこにあるものなので、これを破壊するべき!!!とか過激なことを言うつもりはない。

だけどこの出来上がってしまった社会で生きるためには、やっぱり自分が何を欲しているのか、何をもって楽しんでいるのかをしっかり考えなくてはいけない。

「いけない」という言い方が強い言い方だと自覚したうえで使わせてもらいたい。自分のことを考えずに、周りのことを考えている暇は短い人生の中でない。(人生というワードを出すと急に自己啓発っぽくなるな。啓発してるつもりはないです。)

就活という身近な問題について

考えてみると、就活を3年で一斉に解禁し、就活をしなければいけない雰囲気が社会に蔓延するのは、新卒をとらなければ会社がまわらなくなるからという部分もあるからかもしれない。かもしれないので分からないけど。

就活は自己分析して自分に合う企業を見つけることだけはいいと思う。(雰囲気と合格までのテクニックやらなんやらの重々しい過程はクソ)

AO受験とか時間が有り余っていた浪人を経験したことがない人はおそらく就活がはじめて自分自身のことを深く考える機会なのではないだろうか。自己分析をやったことがないのにいきなりできるわけがない。就活終わるまでに自己分析も終わらせることなんて不可能だ。最近60くらいになった父が「自分ってこんな人間だったんだ、と新しい側面を見つけたよ!」と喜々として報告してきた。自分が生きている限り、どんどん自分の考えは変わっていくから自己分析なんて終わるわけがないんだけど、ある程度の”目途”をつけることは大事だと思う。自分という人間がこういう人間ですよね?ってある程度自分自身に説明できるくらいの目途。


やっぱり自分という人間がどういう人間なのかを知ることが生きていく上で一番大事なんじゃないかな、と。

最後、すごい自己啓発っぽくなってしまった。もう2月だから就活をしている私の友達で大変そうな人たちも増えてきたので最後の就活の文章は少しでもその人たちの励みになったらいいな、と思います。

それ以外の長文は忘備録のため。

だんだん私がしなくてはいけないことが分かってきたぞ。まだまだふわふわしてて霧がかかった状態だけど。とりあえずTOEICの勉強しろよって感じですね。



久々のこんな長文、ここまで読んでいただいたあなたに私はびっくりしております。ありがとうございます。

なにかあったらコメント待ってます。


では、また。


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