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心をひらく

人は、大抵
心が病んでいる。
病んでいるのがありありと分かるのが、私が仕事で相手しているお年寄りだ。

私たちのように、若くて動ければ
心が病んでいるのは見えないけれど

お年寄りは「実は心が病んでいる」ということが、人生の総決算として最後にありありと現れてくる。

第三者目線で見れば、心の病みようがどうしても見えてしまう。

けれども

私は、もう「どうしようも無いこと」と
ずっと
思ってきた。

心は病んでいるものだ。
社会に生きて、病まざるをえない。

それは
見えているとしても、見なくていいもの。

それが、標準で
デフォルトだから。

ただ、そのまま

それをまるまる認める。
その人の個性であり
そういう人生だから
心の病みは、その人の一部だから。
尊重しよう。病んでていい。にんげんだもの。

そっち方向の納得の仕方をしていた。

その場しのぎで、なんとか誤魔化しごまかし
寄り添うしかない。
死ぬまで終わらない。

でも、幸いなるや、死ねるから。
死んでハッピーになれるから。
死んだら終わるから。
だから、安心して。
ゴールは必ずきます。

そう、自分を励まし諦めていた。

病んでいないお年寄りを見たことがないし(そりゃそうだ。介護の仕事なんだしね)
お年寄りどころか
少しでも深く関わると、若くても、誰しもが心を病んでいることが分かる。

みんな、お互い分かってるけど
そういうものだと思っているし
そこをどうにかしようなんて、誰も思っていない。

生老病死、人生とは苦である、南無阿弥陀仏。その心境でいた。

すべては阿弥陀仏(宇宙のアルゴリズム)のままになるようにしか、ない。

自分には、どうしようも無い
と思っていたんである。

本当に、そんなふうに「どーしよーもない!お手上げ!」と、自分のことを手放したので、わたしはこの社会の「死ぬしか無い苦しみ」を受け入れたんである。

すると、私自身が解放された。

解放されたので
「どーしよーもない」
と思わなくなってしまった。

思わなくなったと言うより
思わなくなるような状況がやってきた。

すべて、この「思い」は後出しだ。
私が解釈しているだけだ。
抽象的なことを、具体的な言葉に表現しているだけだ。
なにもかも、「そうしよう」として、しているのではなくて、そうなったことを後づけて解釈している。
それをこのように無理くり言葉に書き起こしている。

人生において、苦は
どうしようも無いものでは、なくなった。

「変えられる」

そう、自分が確信していることが、分かった。

分かるのは、苦から解放された、そのときではない。
そんな瞬間は無くて
それはグラデーションになっていて
じわじわ分かる。

どうして分かるのかと言うと
人と関わることによって、分かる。
関わって、やっと
自分が見えてくる。

現実は鏡だとは、よく言ったものだ。


いま、私は、多くの時間を1人の70代の女性と向き合っている。(仕事ではない)

自分はなにも拒否しなかったからだ。
ただ、状況のままに
流れのままに、受け入れている。

ただ、求められることをそのまま、誠実に対応している。毎日、毎日。

以前の私なら、まず出来なかった。
怖くて、受け入れられなかった。

自分のエネルギーを費やすことが怖かっただろうと思う。
自分が「枯渇してしまう」と身構えたろう。
相手を「私のエネルギーを奪う人」と見なしていただろう。

どうして私がしなければいけないのか。
する理由がない。
(ここで言う理由とは、血縁関係とか、婚姻関係とか、好きな人とか、友人とか、世話になった人とか、仕事だとか、そういう理由である)

何の意味があるのか
損だ。疲れる。そこまでは無理。

そう思っていただろう。

でも、いまは何とも思わなくなっていて
「OK」としか思わない。

「いいよ」としか言えない。
理由とか必要ない。(上記のような見せかけの理由は)

そういうことでは判断しなくなったようだ。

以前は「いいよ」
というのは
判断してからの「いいよ」だった。

今は、その時「いい」から「いい」。
ただ
それだけだ。

そうすると、もう求められるがまま
泊まり込みで、じっくり
1人の70代女性に付き合うことになった。

女性は心が病んでいるんである。
明らかに見るからに酷く、病んでいる。
周囲を巻き込んでいる。

右も左も、大抵の人はどちら様も病んでいるけれど

その人は、崖っぷちになっていて
それをどうにかしたいと強く望んでいる。
助けて!と毎日毎日、世界に叫んでいる。
叫び続けている。

で、マッチングがおきた。
私とマッチングした。
私と女性のデコとボコがハマったのである。

状況とはよく出来ている。

私はその女性と寝食を共にして
自分が、女性の何を見ているか
自分の何を映し出しているのか
自分の何が、そこにあるのか
そういうことを、やはり感じることができる。

相手を使って、自分を深掘りせざるをえない。

深く関わるというのは、自分を深く見るということだ。

それで、ああ私は「変えられない」と思い込んでいたんだ、と思った。

それは、自分が傷つくのが怖かったから。


私は
状況を変えようと期待してはいけない
と常々思うようにしている。

変えられるのは自分の思考だけで
いや、思考も変えられなくて
ただ、思考するのを止めるくらいしかできなくて

他者も、状況も、なにもかも変えられない。
変わることを期待してはいけない。

「他者への、自分への、コントロールを手放す」ということを、反復練習してきた。

その反復練習で、筋力がついたらしい。
もう
「変えられない」を
ひっくり返すときがきたんだ。

いつも、こうやって
気づきとは
今までの信念を、逆転するものだとおもう。

私たちは、螺旋階段のように、同じように行ったり来たり、ぐるぐる回って、階段を登る。

一歩一歩、登ることで
ああ、そうだったのかとわかる。

私は
努力をして、一生懸命に
「状況はすべて、間違っていない。完璧なんだ」と、自分の外側の世界を、ひとつひとつ確認している。

状況を受容することを反復練習している。

内側の
思ったこと、言ったこと、やった事も、すべて、それでいいんだと、完璧なんだと、世界も自分も一緒くたに受容することを、反復練習している。

それはそうなんだけど

世界は自分も含めて、いまここで完璧なんだから、何も変える必要はない。

それは、そうなんだけど

でも、螺旋階段は
そのうえで
世界を受容したうえで
変えられるんだ
という場所に来た。

私の中で矛盾しなくなった。

いま、大事にしていることは
心をひらきたい
ということだ。

もっと心をひらきたい。
もっと世界にこの心を開きたい。

幸せになるために、楽になるために生きてるんじゃない。
そのために、時間をかけているんじゃない。

心を開くために生きてるんだ。










 





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