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自由の刑

「公園がすき」が、noteのオススメに記事に載ったらしく、スキとフォローの爆増にビックリしました。

この機会に、自分の好きな事をどちゃっと書きたいと思います。

公園の話とぜんぜんちがうやーん!



人間は自由の刑に処せられている
だから苦しい。



ベーシックインカムのような
富の再分配を議論しているのを聞く。


「ひろゆき」さんが言うように

60代で、ガン治療により莫大な医療費をかけるよりも
(私も実際に90代一人暮らし女性の年間医療費明細書に800万円の記載を見た。国民年金受給者で非課税のため、自己負担する医療プラス介護の費用は合算でも年間19万円となる)

その60代のガン治療の医療費1,500万円を、20代のうちに渡せるように仕組みを変えれば、若いうちに勉強もできる、結婚もできる、子供も産める。
生まれた子供が働けば、税金も増やせる。

裕福であれば
ベビーシッターに子供を預けたり、家事代行を頼んで子供を産んでも自由な時間を確保できるのに

貧困であれば
狭い部屋で子供を見なくてはならず、遊びに行く自由もなく、虐待がおこる。

お金でそれらの不幸が防げるのは明確で

世界中のお金を集めれば、世界中の人々は充分安心して暮らせる。

なのに、そうしないのは
人間の怠慢だろうか。



ベーシックインカムは人々の奴隷化であるとも聞く。

やる気のない人は
与えられた月々の支給額だけで
もしくは、少しだけ働くことで

部屋にこもってVRやゲームやNetflixで
人生の大半の時間を費やすかも知れない。

そう、レディープレイヤー1の世界だ。

それは、ていのいい『自宅収容』である。

最低限のエネルギーと保清を与えて
能力が低く行動が伴わない者を
厄介払いする。

自宅に自ら引きこもることを是とするのだ。

『自らの選択』として。

今後、労働力は機械化する。
創造力に長けた者は、単純で雑多なことを機械に任せて更にクリエイティブに生きる。

そうでない嗜好の者は、そうではない生き方を『選択』し易くなる。

どのような犯罪者でも人権を蹂躙するわけにはいかない現代

『お荷物』は
毎月少ないお金を与えて
限られた自由の中で黙らせることができる。

富の再分配で与えられるのは
自由か、見えない束縛か。


高度な社会とは何か。

産業革命以降に
近代化の外にまだいた『原住民』のコミュニティを研究した人達が居る。

裸同然で原始的な生活を行う未開の地の村は
高度な精神を兼ね備えた社会だった。

言い争いはなく
人々はいつも穏やかな笑顔で
勤勉で優しく
研究者をもてなし
男女は自由に交わり
嫉妬もなく
子供を全体で育て
必要なものを必要なだけ作り、収穫し
豊かで
リーダーが偉ぶる事は、決してない。
尊敬と助け合いの社会。


そんな住民の集まりが、未開の地では幾つも存在していたそうだ。

村同士の争いも無かった。
争う気がない。
地位も差別もないのだ。

優性思想が当たり前だったからだ。

生まれた赤ん坊で、髪が薄いなど生命力が「弱い」と予測される者はすぐに殺された。

村の(森の)許容を越える人数になれば
女児から先に殺された。

年寄りで移動について来れない者は殺された。

親が子を殺し
子が親を殺した。

結果、強く、誠実で
賢く器用で協調性のあるエリートだけが村に存在することになる。

石器時代には、『面倒を見きれないようなムカつくやつ』はすぐに殺された。
子供でも容赦なかった。

それは、悪ではなかった。
当たり前のことで
生きるとは、生まれるとは
そういうことだったのだ。


果実の適果のように。

芽をつんで、良い果のみを育て残すことが
その木の価値を維持したのだ。

美味しく栄養価があり形のよい果を実らすんだ。
当たり前のその作業で得られた果実を
私たちは好んで食べている。

容赦なく不要な者を殺すことで
注意深く、豊かなコミュニティを守っていた。

いつまでも皆が
平和に仲良く継続的に
幸せに暮らせたんだ。

人権なんて後から作られたものだ。

生きるということと
人権とは
セットではない。


たった一万年前に始まった農耕により
多くのエネルギーの循環が始まった。

小麦を育てれば食べることが出来る。
森の収穫に命を依存しなくてよい。

自然と共存しなくてよくなったんだ。

森と離れて
森を焼いて
労働が人間の生き方になった。

小麦を収穫すると
弱くても年寄りでも、生かすことが出来た。

小麦を収穫するには、労働力が必要だ。
弱くても年寄りでも働くことを課せられる。
多くの人間は労働者となった。

そして
森から出た住民は
優性、劣性
関係なく
生きる権利を持った。

もう、親も子も
足手まといな奴も
調和を乱す奴も
殺さなくて良くなった。

命は大切と教えられた。

そして現代

全て命を与えられた者が生きる
それが当たり前で
複雑な社会となった。


自由とは、幸せとは


性格上の欠落がなく
利益を求めることもない

コンピューターに政治を任せるとしたら

AIよりも無知な閣僚たちが、予算案や財政課税を決めるよりも

膨大なデータから、効率的に経済を
着実に運営するだろう。


けれども

コンピューターに決断を委ねる?

コンピューターは人間の総体的幸福を求め続けるだろう。
ただ、そうすることが正しいとインプットされれば。

その結果

やはり、原始時代の森の村と同じく
優性思想になるのではないか。

出来る
出来ない
そんな線引きが
どこかで可能となれば

まやかしの正しさを
もし、作り出してしまったなら…


考えることを奪われた(捨てた)人間が、コンピューターから主導権を取り戻せるだろうか。


自由ってなんだろう。


人は、何になってもいい、何をしてもいい。

今すぐ会社を飛び出して放浪したっていい。
子供をおいて探検家になっていい(ブッダのように)

誰もが、いつでも、徹底的に、自由だ。
途方に暮れるほどに。

考えも、行動も
私たちは自由すぎて、苦しんでいる。

目的も使命も意味も、あるようで何もない。
神は、何をすべきか決めてはくれない。

人間がすべきことなんて
ほんとうはなにもない。


私はこの60㎡ちょっとの
マンションでひとり
一日中、自由を満喫する。

自由すぎて、ワクワクする。

もし原始的なコミュニティに生まれていたら
速攻で適果されていたに違いない。

私は身体も心も強くない。

いつも睡眠は不規則で
仕事はサボっている。

植物が好きで
忙しい事が苦手だ。

ストレスが嫌いな私は
息をすることに、自由を感じる。

空っぽの頭になってボーッと歩けることに、この世界からの愛を感じる。

ソファーで居眠りしようと
絨毯に転がろうと
存分に
好きなだけ
こうやって
生きていることができる。

ここにこうしているだけで、すごーく幸せだ。

メールの返事がこないけど、いい。
なんだっていい。

苦しさと思うか
幸せと思うか

それは毎瞬、毎瞬、私の自由だ。

この自由さは私のものだ。



自分勝手に苦しめる自由に

そしてまた好きなだけ幸せを感じれる自由に

この世界の愛を浴びているなあと
ひとり、浸ってる。

そんなことばっかりブログに書いてます。


読んでくれてありがとう!!!

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