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考え続ける人間になりたくて

自分が分からなくなってから、
なりたい自分、なりたい大人の像を、私はずっと考えてきた。
自分はどうありたいのか、どうあれるのか。

将来つきたい職業の話や、進学したい大学と学部みたいな、そんな具体的なことじゃない。

すごく細かいことなのだ。

ゴミ箱の近くに落ちているゴミを、無視せず拾って捨てる大人になりたい。
とか、
挨拶と感謝と謝罪が、きちんとできる大人になりたい。
だとか。

そういう細かいこと。

その細かいこと達の中で、唯一細かくなくて、私が最も大切にしたいと思っている、大人の像がある。

自分の意見を持ち、常に考え続ける大人でありたい。

これが私の根幹を成していると言っても過言ではないくらい、力強く、私の生きる指針として存在している。
父がそういう人だから、自分もそうありたいって思うのは、自然なことかもしれない。

でも、ここで問題が発生するのだ。

今の私は、何かに悩み、考えられているのだろうか、という問題だ。

私が常に物をグルグルと考えて、自分の意見を作ろうと必死だったのは、中学3年生だった。
学校にも行かず、永遠と哲学的な事ばかり考えていたから、中学3年生の時の時間の流れは異常に早く感じた。

何故私はこうも、中学3年生の時にものをグルグル考えられたのだろうか。

その理由は単純だ。
しんどかったからだ。

色んなことに疲れて、痛みを感じながら、「なぜこれはこうなんだ」「なんでこうも楽しくないのだ」「なんでこんなことしなくちゃいけないんだ」「なんで私は生きるんだ」
って。
痛みが伴うから、ずっと何故と問うて、色んなものを嫌がっていた。

痛みと絶望があるから、何故苦しい思いをしている?と疑問に思う。
何故自分は存在している?
何故この人は笑っている?
何故私は学校に行けない?
私が物を深く考えるスターㇳ地点は、苦痛だった。

まあ、普通はそうだろう。
楽しくて幸せな瞬間は、悩めない。

私は今とても幸せだ。

そのことを素直に受け入れて喜ぶべきなのに、私はその現状に危機意識を持ってしまう。

幸せだから、前ほど、ものを考えなくなった。
深くものを考えようとしなくなった。
そんな気がする。

そして、浅いことばっかり考えてる、そんな自分を受け入れたくない。

もっと、生きるか死ぬかをかけて、ものを考えていたかった。

あまりにも言っていることが無茶苦茶である。
幸せに感謝すべきだ。
両親に、友人に、感謝すべきだ。

わかっている。
わかっているのだけれど、深く強く、何かを必死になって考える瞬間には、いつもままならぬ苦痛があるのだ。

私がなりたいと思う姿に、深く考え続ける大人が在る以上、
苦痛を感じ取る感受性が必要不可欠になるのだ。

ほんと、おかしな話だと自分でも思う。

不幸せになりたいわけじゃない。

それでも、苦痛が必要っていう。
もうわけがわからない。

今日はそういう混乱を、かれこれ2年くらい抱えているという、愚痴を書いてみた。それだけ。
ほんと気まぐれ。



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