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カフェの忘れ物

昨日、仕事帰りに前から気になっていた会社近くにあるカフェに立ち寄った。

コーヒーとケーキセットを頼んで小一時間読書を楽しんでから、さあ帰宅しようと駅の改札に向かって歩いているとなんだか肌寒い。

あ、コートをカフェに忘れてきてしまった。

改札を目の前に取りに戻ろうときびすを返すと、小走りでこちらに向かってくるカフェの店員さんが目に入る。

その手には私のコート。わざわざ駅まで追いかけて届けてくれたのだ。

カフェから駅まで1-2分の距離とはいえ、追いかけても間に合うか分からないし、落とし主が見つかるのかもわからない。

私がカフェの店員だったら、きっと忘れ物ボックスに入れてメモを残して済ませてしまうだろう。

それでも彼は走って追いかけてくれた。
何が彼にそうさせるのだろうか。

それと同時に「これってそんなに特別なことなのか?」とも思った。

誰かが落とし物をしたら、追いかけて渡してあげる。とても自然な行動だ。
それをなんだかとても特別な出来事に感じてしまう私。

私自身の中に、知らない人に対してのある種の「あきらめ」みたいなものがあることに気づく。

近所のコンビニやファストフード店の店員さん、電車の中で隣に座る人、アパートですれ違うお隣さん、毎日のようにすれ違うのに、挨拶はしないし、興味も持たない、まったくの無関係な他人。

相手も私のことを同じように思っているはず、と思っている。

だから、急に知らない誰かと人間的なつながりが生まれると、驚いてしまう。どぎまぎしてしまう。

でも、一通りどぎまぎした後に湧いてくる感情は「うれしい」だった。

誰かとの新しい小さなつながりが生まれたことに対する喜び。ヒトという社会的な動物が持つ自然な感情。

普段の私はそうした気持ちをどこかに隠して生活している。

たぶんそうしないとやっていけない何かがこの街にはあるのだろう。
東京の街を歩く多くの人たちもきっと同じなのだ。

だからこそ昨夜のカフェの店員さんのように自然な行為に特別を感じてしまうのではないか。

そんなことを考えながら、少し温まった気持ちで電車に乗って家路についた。

何はともあれ、クルミドコーヒーの店員さん、ありがとう。

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