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再録「あのときアレは神だった」〜京塚昌子

テレビアニメ、漫画、スポーツ、アイドル歌手などなど。
実在の人物から架空のものまで、
昭和にはさまざまな「キャラクター」が存在した。
われわれを楽しませたあの「神」のようなキャラクターたち。
彼ら、彼女たちの背後にはどんな時代が輝いていたのだろうか。
懐かしくて切ない、時代の「神」の軌跡を振り返る。

(2016年より、夕刊フジにて掲載)



保険会社のCMに渡辺直美が出ている。西島秀俊演じる夫の身を案じながら、子連れで夫の入院する病院に駆けつける妻の役だ。(当時)

最近、なにかと好感度を上げている渡辺直美だが、そこにわたしはある影を見た。「肝っ玉かあさん」である。

「肝っ玉かあさん」とは、同名のテレビ番組(1968年、TBS系で放映開始)で女優の京塚昌子さんが演じたキャラクターで、温かく肝っ玉の座った母親像が、ブラウン管を通じて国民的な人気を博した。

肝っ玉かあさんとは、いわば「割烹(かっぽう)着オカンの神」。それ以来、イメージのなかの「かあさん」は、割烹着姿で、ちょっと太っていて、少しおっちょこちょいで、いつもニコニコしていて、ちょっとやそっとのことじゃ動じない、そんなイメージが全国に普及した。

演じた京塚昌子さんは、このあたり役である「肝っ玉かあさん」のキャラクターと実生活の間のギャップで苦労したと聞いている。実際は恋多きひとりの女だった。

当時、太っていることがなにか意味を持っていたのだろうか。

性的な意味を排除したうえでの安心感、単に肉で体温が高そうだという連想からくる温かみ。そんなものだとしたら残酷だ。

もちろん、見る人が見れば、肝っ玉かあさんの本当の魅力は、割烹着や肥っていることなどじゃなくて、いるだけですべてを受け入れてくれる「底なしの包容力」だということに気づく。

高度経済成長時代、自分のおふくろを横目でチラチラと眺めながら、どこか希薄になりつつあった家族やおとなたちの(自己犠牲的な)「包容力」を、テレビを見ながら確かめていた。「肝っ玉かあさん」というのは、もしかすると、そんな世間の温かさのメルクマールのようなものだったのかもしれないな、なんて思う。

渡辺直美の演じる母親像が、単に肥っているだけのコミカルなお母さんじゃなければいいなと、ふと思う。 (中丸謙一朗)




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