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宗教に関するひそひそ話マガジン『宗教とインチキのあいだ』始めます

※有料記事ですが、今回はマガジン開始記念で全文無料公開します。

Twitterではセンシティブすぎて書きづらい宗教の話を、ひっそりと語っていくマガジン『宗教とインチキのあいだ』始めます。

「誰の心もすり減らさずに宗教について語るにはどうしたらいいんだろう?」と考えたあげく(たぶん2年ぐらい考えてた)、この形をとることになりました。

宗教がより多くの人を、できることなら万人を救うものであるためには、どんな要素が必要なんだろう? そのために私たちはどんなことを考えなければいけないんだろう? カルトってなんだろう? というか、宗教とかカルト以前に、人間にとっての「救い」ってなんだろう? ……そういったことについて書き綴るマガジンにしたいと思います。

9月末に発売になる私の本では、宗教や民間療法とのつきあい方などについてもひとつ章を割いています。宗教についてもっと深く語りたかったのですが、紙面の都合もあり割愛した原稿やテーマもあるので、そういった内容をこちらで語っていきたいとも思っています。この本↓のスピンアウトのひとつ、とも言えるかな。

このマガジンが、何か新しいコミュニティのように機能してくれたりもするといいな、と、うっすら願ったりもしています。

私の宗教的経歴

さて、最初の記事ですので、まず私の宗教的な経歴についてご説明いたします。

私は、ご縁あって30過ぎてカトリックで洗礼を受けました。しかし、それまでは比較的熱心な仏教徒であり、汎神論者でした。(というか、厳密には今でも私は仏教徒であり、汎神論者です。私は「仏教徒の身体にキリストとの契約という帽子をちょこんとかぶった人間」なのです)

※ここで不快に感じた方は、どうぞ途中をふっとばして、次の節「現在の私と、有料マガジンを始める理由」をお読みください。私の願いが少しでも伝われば幸いです。

(当時自覚していなかった)発達障害や、複雑な家庭環境からくる生きづらさに、幼いころから「救われたい」という渇望が人一倍強かった私。小学校時代には、ときどき近所のプロテスタント教会の日曜学校に顔を出すようになりました。しかし、そこでまるで本末転倒ともいえるような絶望や怒りを覚える体験をして、そこでいったんキリスト教からは離れました。(具体的なエピソードについては今後の連載の中で語ろうと思っています)

高校生になるころには「私はカルトにはまったら絶対に戻ってこれないタイプだ。宗教には気をつけなきゃいけない」という自覚を持ちました。それから、いろいろな宗教についての入門書や、宗教学の分野の噛み砕かれた実用書などを読み漁ることになります。

大学に入ったころから本格的に生きづらさを覚えるようになり、就活にも失敗した私は、そこからほぼ10年間、「実家から出るに出られず、一人で母の相手をする」という生活をしました。この10年間、実家の状況は刻一刻と悪くなっていき、私は心身ともにどんどん追い詰められていきました。「私は現世で生きていくことはできないだろうし、出家して仏教の尼さんになろうか」と半分本気で考えていた時期もあります。

30近くになって、蛾がフラフラと街灯に引き寄せられるかのようにプロテスタント教会につながった私は、「集まりのなかで詩篇を朗読していたらなぜか嗚咽するほどボロ泣きする、しかもそれでめちゃくちゃ癒やされてしまう」という経験をしました。それで、「よくわからないけどなんかここはもう観念して、この差し出されてる腕に飛び込む以外にないんだろうな」と感じて、「イマイチ納得できないけど洗礼を受けてやってもいいぞ」みたいに思うようになります(ツンデレかよ)。

ちょうどそのくらいのタイミングで東日本大震災が起こりました。震災関連の混乱から実家の状況は極限まで悪化し、私は母と互いに殺し合いかねないほどまで追い詰められました。そこへ突然、TwitterのDMで「つらそうで見ていられない。逃げてきてください、なんなら一生食わせます。結婚しましょう」と連絡をくれた、危ういほどに優しい人が、現在の夫です。

※人も神もうまく信頼できずにいた私にとって、この夫との結婚生活はとてもチャレンジングなものでした。混乱しすぎて大きな離婚危機を三回繰り返し、観念して集中的なトラウマ治療を受けたあげく、ようやくここ数年平和な生活を手にしました。経緯の詳細は、上にも紹介したこの↓本に書いています。

夫も、思うところあって成人してから洗礼を受けた人です。彼はカトリックだったので、同じキリストに信仰を持ちながら夫婦で別々の教会に通うのもバカらしいと思い、「仏教用語だけど、ご縁だね」ということで、まもなく私もカトリックで洗礼を受けました。

現在の私と、有料マガジンを始める理由

現在の私は、同じくカトリックの夫にくっついてたまに教会に行く程度です。ここ数年、Twitter経由で、キリスト教をよりよく変えていこうというツイートをしていらっしゃる牧師や信徒の方などと出会ったのは、とても幸せなことです。

彼ら、キリスト教について発信する人たちと交流するうちに、自分が幼いころにキリスト教に対して覚えた疑問は、まさに彼らがいま向き合おうとしている、いままでの/現在のキリスト教の課題なのだと気づきました。

それで、彼らのツイートを読んだり、私もつられて発言したりするようになりました。しかし、どうもいまのTwitterは、宗教のようなセンシティブな話題を扱うにはよろしくない。

彼らも私も、キリスト教全体やキリストや特定の教義、それらを信じて救われてる人を否定したり冒涜したりする気はさらさらないはずです。学問的に言ってこの解釈が絶対正しい! いやこっちが正しい! という議論をしたいわけでもない。「いままでの/現在のキリスト教にはこういう課題がある。それをどうにかして乗り越えて、ちゃんと万人を救う宗教になってほしいよね。そのためには私たちはこう考える/行動する必要があるよね」という、宗教生活の話、宗教の実用の話をしてるんだと思うんです。

だけど、Twitterのように短文が途切れ途切れに拡散されてしまう媒体では、どうしてもここがうまく伝わらない。発信する側も受け取る側も、必要以上に心をすり減らすことになってしまいがちです。

結果的に、私はあまりTwitterで宗教の話をする気になれなくなってしまった。萎縮してしまったと言っていいかもしれません。私自身が「否定するな! 冒涜するな!」という怒りを受け取ってすり減りたくないし、ほかの人を(たとえこちらにその意図がないにしろ)「否定された! 冒涜された!」と思わせてしまってすり減らすことも心苦しいのです。

でも、宗教の話は私にとって、このまま何も発信しないでいるにはあまりに大切なものです。というわけで、有料にすることで拡散性を適度に抑えることのできるnoteという場で、いろいろと書いていきたいと思います。

基本的に1記事200円ですが、マガジンごとお買い上げいただくと500円。買い切りなので500円ポッキリです。3記事以上お読みくださる場合は、500円でマガジンごとお買い上げいただいたほうがお得です。これから数十記事書いていくつもりですので、連載が続くほどにお得になり、1記事十数円相当のご負担になる可能性もあります。マガジンをお買い上げくださる方はこちらへ↓

これからどうぞよろしくお願いいたします。すべての生きとし生けるものが幸せでありますように。

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