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カルトにだって人を救える。ただし、部分的に。あるいは、なにかを犠牲にして。

Aさんとの友情

実家時代、足しげく私のところを訪ねてくる中年女性がいました。エ◯バの証人の方です。Aさんとします。

Aさんは、とても…… いや、どちらかというと、あまりにも、純粋で優しい方でした。私は、彼女の所属する「も◯みの塔」がカルトであることは知っていましたし、調べてみても彼らの教義には納得できなかったので、集会への参加は頑なに断っていました。でも、彼女と話がしたかった私は、彼女が来ると小一時間、玄関先でいろいろなことを語りあいました。

当時、近所のプロテスタント教会に通っていたものの、日々の生活がつらくてたまらなかった私。当時10年近くひきこもり状態だった私が身辺に持っている、精神的に不安定な母親以外との人間関係というと、教会の礼拝前後のちょっとしたものだけ。ほかに友人はいませんでした。

教会の人間関係も大きな支えにはなっていたのですが、家に帰れば地獄。クリスマス礼拝の最後に牧師先生が「ではみなさま、それぞれのご家庭で喜びを分かち合ってください」とおっしゃった瞬間に、私は真っ暗な森の中にひとりで取り残されたような気持ちになったりもしたものです。

そんな私にとって、Aさんは貴重な友人でした。この世の悲しみや、救済を待ち望む切実な想いについて語り合える相手がいることは喜びだったのです。たとえその人がカルトの信者で、私と彼女が信仰の核心部分は共有できないのだとしても。

確かに彼女は救われた。でも……?

Aさんに、なぜエ◯バの証人になったのかを尋ねたことがあります。彼女はまっすぐな目で答えました。

少女時代、この世に戦争とか貧困、苦しみとか悲しみがあふれていることに耐えられなくなって、すごく悩んだことがあったんです。なぜ? どうして人間はこんな理不尽な世界に住んでいるの? って。でも当時、そういった疑問にちゃんと答えてくれる人も、本もなかった。私は必死に、こういう疑問を心の隅に追いやって、ふつうに結婚し、子どもも産みました。そんなころに、も◯みの塔と出会いました。ポストに入っていた「も◯みの塔」のパンフレットを読んで、私は矢も盾もたまらず集会に参加するようになったんです。私の疑問の答えをやっと見つけた、って思ったから。

つまり、人間の生き方とか世界の理不尽について深く思い悩んでいたあなたに、たまたま最初に答えをくれたもの…… 宗教的な救いを求めていたところに初めて出会ったのが「も◯みの塔」だったわけですか? と聞いたら、Aさんは「そうです」と答えました。「私は宗教についてなんの知識もなかったし、『も◯みの塔』のことを、普通のキリスト教の一派なんだと思っていました」と。

私はこの話を聞いて、思わずめまいを起こしそうになりました。このように優しく純粋な方が、カルトに抱き込まれてしまった喪失、Aさんのもっとずっと自由で全人的でありえた救いが損なわれた喪失、そして、このような喪失を許してしまった、現代の各伝統宗教の怠慢への怒りで。

私がそれまでの半生で感じてきた宗教的な疑問は、Aさんが語ったのとほぼ同じです。Aさんと私の違いは、「最初に心をつかまれた宗教的言説が、カルトによるものであったかどうか」だけ、つまり、完全に運だったと言えます。

Aさんのご主人はエ◯バの証人ではないという話でした。私はここで、「もしかするとAさんは、ご本人が信仰によって救われることと、家族との間になんらかの距離ができること、お子さんの生き方を大きく変えてしまうことをバーターにしたのかもしれない」と憶測します。

Aさんが、お子さんの幼いころに入信したのであれば、お子さんは少なくとも夫婦間の宗教面での衝突に巻き込まれたでしょう。近所を独自の聖書やパンフレットを持って訪問するお母さんの姿に、複雑な想いを抱いていたかもしれません。こうしたお母さんの姿がきっかけで、学校でいじめられた可能性もあります。お母さんの熱心さに逆らえず、効果や音楽の授業での歌を歌わない、林間学校でキャンプファイヤーに参加しない、訪問宣教についていく、一般の漫画などを見ない、テレビも見ない、などといった、「も◯みの塔」の教義に沿った生活をしたかもしれない……

エ◯バの証人の訪問宣教では、メインの宣教者に、同じ集会所に属しているらしき、10歳ぐらいまでの子どもがついてくることがけっこう多いです。この年代の子どもは単に「手持ち無沙汰だなあ」ぐらいの態度でいることが大半ですが、たまに、迷いのない顔をした中年の宣教者のうしろに、そっと隠れるようにハイティーンから20代ぐらいの若者が立っているのを見ていると、正直いってめちゃくちゃつらそうです。いわゆる、目が死んでいる状態。

これは私の偏見にすぎないのですが、彼らは少なくとも、宗教で救われているようには見えません。どちらかというと、「自分に降りかかった理不尽な運命に粛々と耐えている、耐える以外に対処する方法がないから」みたいに見えます。

おそらく彼らは二世で、物心ついたときにはすでに親が入信していたタイプなのではと思います。

ほんとうに勝手なことですが、私は彼らの死んだような目に強いシンパシーを感じてしまって、「いいから親も宗教も捨ててこっちおいで! 大丈夫、死なないから!」って腕をぐいぐい引っ張りたい衝動を抑えるのが大変でした。

カルトはいつも、私たちのとなりにいる

カルトは確かに、人を救うことがあります。上記のAさんが、「も◯みの塔」の教えに救われたように。

ただしカルトの救いは、部分的なものにとどまります。たとえばカルトの救いは、「エ◯バ以外を崇めた者は地獄に落ちる」という条件つきのもの。「私は、自分の行動いかんによっては愛されない、救われない、罰せられる」という恐怖とセットでやってくるのです。

カルトだって確かに人を救うことがある。けれど、そのときカルトは、劇的な宗教的救いのほかの、多くの人間的な喜びやつながりを犠牲にするのです。

「も◯みの塔はひどいカルトだな」と思いましたか?

でもね、実は私もカルトの二世です。私が物心ついたときにはすでに、母はそのカルトの熱心な信者でした。あなたも、気づかないうちにこのカルトの二世だったりするかもしれません。

…… そのカルトの名前は「世間さま教」っていうんですけどね。

母は私に、以下のように熱心に「世間さま」の教えを語って聞かせました。

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