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集団のために誰かが犠牲になることは、どんな理由があれ間違っている

※「宗教とインチキのあいだ」マガジン内の有料記事ですが、今回は試験的に全文無料公開にします。

私は、「集団のためなら個人の命や尊厳を犠牲にしてよい」とする、すべての論理を嫌悪します。ちなみに、これは私の、多分に感情的・直観的な結論であり、ひとつの信仰です。論理的な帰結ではありません。今日は例を挙げながらその話をします。

ヒトの道徳観にはバグがある

「トロッコ問題」という、倫理学の有名な思考実験があります。

「私は、暴走するトロッコから5人の命を助けるために、1人がいる側に分岐器を動かすべきか(5人の命のために1人の命を犠牲にすべきか)」という基本問題から、「私は、橋の上の自分の横に立っている巨漢1人を橋から突き落とし、トロッコに轢き殺させてトロッコを止めることで、その先にいる5人の命を救うべきか」などといった応用問題までがあります。

この思考実験自体が非常に残酷で、心地よいものではないものの、これについて多くの人が思考を重ねた結果、以下のようなことがわかってきました(引用がWikipediaで恐縮ですが)。

ハウザーの主張は、人の道徳的判断は理性と理論よりも、直観と感情の影響を受けていると言うことである。そしてどのような要因が非道徳的と判断されるのかを次の三つにまとめた[4]。
行動の原理:行動による害(例えば誰かが死ぬような出来事)は行動しなかったことによる危害よりも、非道徳的だと判断される
意図の原理:意図を持ってとった行動は、意図を持たずにとった行動よりも非道徳的だと判断される
接触の原理:肉体的な接触を伴う危害は、肉体的な接触のない危害よりも非道徳的だと判断される

米Time誌の記事によれば調査対象の実に85パーセントが5人を救うためでも1人を突き落とさないとした、とのことである。また現実では殺人の理由は多岐にわたるが、犯罪や事故が進行中であるという理由で殺人が行われることは皆無である。したがって実際にこのような場面に遭遇した場合、人は五人を見殺しにする可能性が高いようである。

Wikipedia トロッコ問題

つまり、どうもヒトという生き物は、それが論理的に正しいかどうかは別として、「自分が直接、意図をもってした行動によって、肉体的に接触することで誰かを殺す」ことに、もっとも強い道徳的拒否感を持つシステムを持っているらしいのです。たとえば人は、「突き落とせば必ず相手が死ぬとわかっている状況で、Aさんに自分の意志で体当たりをして橋から突き落とす」ようなことにもっとも強い罪悪感を抱く。

これは逆にいえば、「道徳的拒否感を持つ要素をできるだけ除いていけば、人は人を殺しうる」ということでもあります。たとえば死刑執行の場面では、「自分の手でAさんの首を締めるのではなく、自分はボタンを押すだけで、Aさんを殺すのは電気椅子である。しかも、ボタンは3人から成るチームの人々でいっせいに押すもので、誰の操作によって電気椅子が作動するのかは誰にもわからない」みたいなシステムが導入されていたりします。

私は、自分の感情と道徳観も、やはりこのようにできていると感じます。ただし、だからといって、この感覚が論理的に言って正しいとはかぎらない。こういった素朴な道徳的感覚を、倫理学では「直観的」と呼んで嫌います。直観とは、「だって私はそう感じたんだもん! 根拠はないけど絶対そうだって!!」みたいなことです笑

私たちは、自分たちの道徳的拒否感が働きにくい条件下では、人を殺したり害したりしうる。つまり、私たちは「気分によっては罪悪感を持たずに、人を殺したり害したりしうる」。こんな道徳観、正しいものと言えるのでしょうか。もしかするとこれは、私たちの脳が持ってしまったバグのようなものではないかと、私は考えています。

仮に、このバグのある道徳観が、私たちの本能的なレベルのものだとして…… 高度な精神活動を持ち、社会をつくり、宗教的感覚を持つ私たちは、瞬間ごとに、この本能レベルのものを超えていくべく倫理的に生きる必要があるのではないか、それが私たちの理性の存在意義なのではないか。そして、私たちにその理性を与えてくださったのが神であり、現代を生きる私たちはいま、神に応えるべきなのではないか。そう私は思います。

イエスの十字架上の死に、私は喜べない。ひとりの人間として

私たちのバグがあらわになった例のうち、もっとも印象的なのはナザレのイエスの磔刑でしょう。

あれはつまり、2000年前の死刑です。群衆ひとりひとりにとってあの死刑は、自分がイエスの首を締めたり、崖から突き落としたりするようなものではなし、ただ無数の仲間と一緒になって正義の名のもと「殺せ、殺せ」と叫べば済むという、非常に心理的負担の低いものでした。むしろ、娯楽に近いものでさえあったかもしれません。それぞれの執行人にとっても、自分たちはイエスを十字架にかければいいだけで、直接にイエスを殺すのは十字架だったから、抵抗感を感じる者はいたにしても結局は実行できてしまった。死刑とはおそらく、そのようなシステムでもって、なるべく楽な殺人をかなえる方法のひとつだったのでしょう。

詳細は今回のテーマから外れるので詳細は省きますが、私はイエスの十字架上の死を、「私たちの原罪をあがなってくれた、感謝」とか、「キリストの勝利の証明だ、喜ぼう」とかは考えません。私は、あれを「単に、ひとりの人間が、道徳感覚がバグって原始的なレベルに退行した私たちによってなぶり殺された、どこまでもかわいそうな事件」だと考えています。もし私たちがこれを覚えているべきだとしたら、「私たちがその前もその後も似たような犠牲者(原義通りの意味で)を生み出しているという、身をつんざくような人間の罪の自覚として」ではないでしょうか。

※私と見解の異なるクリスチャンの信仰を否定・侮辱するものではありません。私はこのように信じて救われている、あなたはそのように信じて救われている、どちらも素晴らしい神の恵みです。私はあなたの信仰や救いを尊重してそうっとしておきます。じっさいTwitterでも、私は見解がおおかた同じ人に対してしか自分の想いを語っていません。けれど、拡散性もスピードも速いTwitterでしょっちゅう自分と異なる主張がパラパラと流れてきたら、どんな話題であれ気になってしまうのも人の常です。必要以上に人の心を逆立てるのは心苦しい、けれどどうしても発信はしたい(発信したい理由はこのマガジンなどで今後詳しく書いていきます。これとか)ので、私は遠慮してできるだけnoteで発信するようになりました。記事の書き方にもできるだけの注意を払っています。あなたも私の判断や努力を尊重して、私をそうっとしておいていただけると嬉しいです。※

私たちは、人間として生きていく以上、どんな理由であれ、人を害することを正当化してはいけないはず。それがたとえ、イエス・キリストの磔刑であっても…… 私は、クリスチャンである以前に、ひとりの人間として、そう思うのです。

百歩譲って「そのような犠牲がどうしても行きがかり上必要だった」というのであれば、それはせめて、自分の内臓をえぐり、涙も涸らすような強い悔恨と懺悔とともに語られるべきであって、ましてや幸福のうちに犠牲者を讃えて終わってよいものではないはず。

そうでないと、より小さき者、より孤独な者が、より強い者、より多くの者から軽々と害されつづける、私たちの罪の連鎖が終わりません。

私たちは人身御供のレベルを脱し、人間として成長しなければならない

私たちの罪はあまりに多いので、ひとつひとつ具体的に挙げていたらきりがありません。私の精神も持ちません。だから、二つ三つ具体例を挙げたら、あとは抽象例を挙げて終わりにします(これだけでもきつい)。

たとえば目黒児童虐待死事件について、被害児の死を「命をかけて児童虐待問題をわれわれに突きつけてくれた」などと称揚する意見が一部にあるようです。私はそうしたものを見ているとめまいがします。

これはそもそも、もっと早くに私たちが児童虐待問題に心を留め、虐待の発生しやすい・悪化しやすい社会システムを本気で見直していたら防げていた事件のはずです。私たちは、このような結果を防げなかった自分たちの罪を悔いこそすれ、誰かの苦しみや死を称揚すべきではありません。結果的に社会の関心が児童虐待に向くという変化が起きたこと自体は「不幸中の幸いだった」とは思いますが、どうせ社会に良い変化が起きるなら、犠牲者などなしに変化したほうがいいに決まっています。

一人の人、特に逃げる力のない幼い子どもに、神になることや、集団のためのなんらかの役割を演じることを求めるのは、人道的に言えばあってはならないことだと思います。

ネパールの、初潮を迎えるまでの幼い女の子を生き神としてまつる風習の話も(地面を歩いたり、ほかの女の子と同じような教育を受けることも許されないらしい)そうだし、

日本で言えば、皇族の子どもは、世間と隔絶されたところで育てられますし、特に皇位継承順位の高い男の子は、外出するときには自分の父親と別れ別れに移動しなければならないそうです(万一の事故で一度に亡くなってしまうなどすると大変だからだそう。知ったときにはショックでしばらく固まってしまいました)。皇位継承順位の高い皇族と結婚した女性は女性で、元気で賢い男の子を生み、控えめで上品、かつ利発で献身的な良妻賢母であることを求められます。

私は、人間にとって宗教は非常に大事なものだと思っていますし、どんな神であれ、その役割を追う方のことは心から尊敬しています。こういった風習を全部やめろと言いたいわけでもありません。ただ、もし必要があって続けるならば、こうした宗教を大事にすればこそ、「このような、集団のために誰かを犠牲にするようなやりかたは、人道的に言ったら本来あってはならないことだ」という内省を忘れてはいけないと思うのです。

私たちの精神は結局、イエスが磔刑に処された2000年前と同じような、原始的な人身御供のレベルから脱せていないのかもしれません。

家族のために、地域のために、これからの世代のために、将来のある者のために、クラスのために、学校のために、保護者を喜ばせるために、◯◯大会で好成績を残すために、会社のために、お国のために、年長者のために、男性のために、お客様のために、教会のために、教団のために、神のために、お父さんのために、お母さんのために、納税者のために、まともな人のために、ノーマルで立派な人のために…… 子どもは、女性は、スクールカーストの低い者は、若者は、地位や肩書の低い者は、外国人は、店員は、神父は、牧師は、センセイの家の子どもは、信者は、働けない者は、障害者は、性的少数者は…… みんなのために我慢すべき、死ぬまで努力すべき、身を捧げるべき、捧げて当たり前、捧げてくれてありがとう、これが愛だ、まるで天使、すばらしい犠牲、自ら犠牲になると本人が言ったんだから問題ない、えっ、捧げないの? われわれの思う通りに生きないなんて、なんてわがままなんだ、身分をわきまえろ、◯◯のくせに……

私たちはこのように、道徳的・人道的問題の山積した現在を生きています。正直いって、なに教であるか、なに派であるか、どんな信仰をしているかとかいった次元でカンカンガクガクやってる場合じゃない気がします。

何かの宗教の信徒である以前に、そういったすべての枠を取り外して、人間として、苦しいことは苦しい、嫌なものは嫌、間違っていることには間違っていると、ひとりひとりが言っていく。そういうタイミングが来ているように、私は思います。

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