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救いを探してる日本人には、当面、キリスト教よりもマインドフルネスが向いてる気がする

カトリックのクリスチャンである私がこんなこと言うのもナンですが、ほんとにそう思います。

ナザレのイエスがしていたのは単純に、以下のようなことだった、と私は解釈しています。

・当時の法にそむいてまで、社会的弱者にとことん寄り添った
・全ての人に、出自や行いを問わず、無条件に「生きてていいよ」「そのままでいいよ」と伝えた

私は、けっこう調べたうえで、「(断言はできないけれど)どうも上の2点だけは本当と考えてよいだろう、本当ということにしておこう」と判断し、そのうえで洗礼を受けました。

だから正直に言うと、私にとって現代のキリスト教のほかのあらゆる要素は、「ほぼどうでもいい」です。ミサや礼拝で供されるパンとぶどう酒が本当に「キリストのからだ」かどうかとか、天国や地獄が実在するのか、実在するなら物理的にするのかとか。クリスチャンはセックスをしていいのかとか堕胎していいのかとか、酒を飲んだり薬物を使ったりすることは悪いことなのかとか、どんな身なりでいるべきなのかとか、教会に通うべきなのか、いくら献金し、教会のためにどれだけ無償で労働すべきなのかとか。

※もちろん、上記のような議論をする人たちを否定する意図はまったくありません。少なくとも私はそこに力点を置いていない、というだけです。

キリスト教で救われるには莫大なコストがかかる

ただ、悩ましいのが、「私程度の教養では、キリスト教についてなに一つ断言できない」ということです。

冒頭に書いたイエスの行いについても、私は「『(断言はできないけれど)どうも上の2点だけは本当と考えてよいだろう、本当ということにしておこう』と判断」しただけであって、完全に事実として考え、100%安心して信じているわけではありません。

私は宗教に関する文化的環境にも、個人的な興味関心にも恵まれたほうだと自覚しています。神学や聖書学をやったわけではない一般の日本人クリスチャンとしては、それなりに(現代キリスト教の教義や規則そのものではなく、キリスト教も含めた世界の各宗教の歴史的経緯について)知識のあるほうなのかもしれません。

それでもあまりに背景知識が足らなすぎて、自分の信じる宗教の根幹について、つねに一定の疑いを挟まないではいられない。これはなかなかに不安なことです。

だから、「できればキリスト教に100%安心して身を任せられるようになりたいなあ」と思って、少し考えてみたんですが、なんだかつらくなっちゃいました。

だって、キリスト教って、身を任せる状態に至れるまでに、すっごいコストかかるんだもん。お金と時間と体力と努力と運が必要なんだもん。

ちなみに私は、宗教に対して、「精神的なコスパの良さ」を求めるタイプです。そうしないと死にたくなっちゃって、神の愛を感じるどころじゃなくなっちゃうからです。ひとりの人間として、命にも体力にも精神力にも限界があるし、個人的には私は、イエスはそういう人間をこそ探し回って見つけてくれるような人だと信じています。

イエスが生前やっていたこと、初代教会に受け継がれていたことを、事実として誤りなく理解し、100%安心して信じ、これらから外れている言説を迷いなく頭から排除する…… つまりキリスト教ひとつだけで完全に救われるためには、かなりの教養が必要なのではないかと思います(最悪、苦労して教養を身につけた結果、救われないじゃん、となる可能性だってある)。たとえば以下のように。

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