閉じこもり治療法、実践中

日曜の夜、普段と違う場所でこれを書いている。

10連休が明けてから、その分を取り返すかのような勢いで忙しくなってしまい、ろくに休むこともできなかった。さまざまな事情が重なって心身ともにがたついてしまい、風邪を引いたり、布団から出られず三度寝したりする日々が続いた。

まずい。完全にまずい。

幸運にも風邪はあっさり治ったが、問題は病名の付きにくい肉体疲労と、へたればへたるほど拗ねて閉じて凍っていく私の心の疲労である。

まあ正直なところ、私という人間の性質として、こういうことは決して珍しくない。やるべきことはだいたいわかっている。


①徹底的にひとりになること。

もともと共感性が高めで、他人の感情や感覚を敏感に感じ取ってしまうほうなのだが、普段はできるだけ自分にチューニングを合わせるというか、必要以上に共感しすぎないように調節している。

でも、疲れが溜まってくると、チューニングする余力がなくなってしまうようで、些細なことがいちいち刺さるようになってしまう。共感性というよりも、単なる過敏、過剰反応。皮膚が赤むけたままで外の風を浴びるような痛み。

この状態で人と会うと、何事も悪いほうにしか受け取れないので、親しい友人であっても会おうとは思わない。ひとりで傷を癒す。皮膚の再生、はよ。


②文章を書いて感情を吐き出すこと。

話すのが得意ではない。仕事で話さなければならないときは、経験値で片付けられることも多いのだけど、感情を伝えるのが無理なのだ。「誰かに話してすっきりする」という感覚が、いまだにあまりよくわからない。

自分の気持ちを聞かれると、その場で何か答えろと言われても、頭と心が混乱してしまうことが多い。私の感情は、私の頭や心や体の中に、ものすごくぼんやりとした雲のようなかたまりとして収納されているので、取り出し方もわからないから。話し相手がいたとしても、これを面と向かって話そうとすると、自分自身の混乱による疲れと相手への申し訳なさで、かえって落ち込んでしまうのが容易に想像できる。

昔から、面と向かって言えないことは、手紙にすればきちんと伝えられた。だから私は「文字」とか「文章」に全幅の信頼を置いている。こんがらがった糸を1本1本ほぐすように、じっくり1文字1文字綴っていく。ひとりぼっちで。まさに、今このnoteを書いているみたいに。


③ただひたすら眠ること。

睡眠は体力や気力の「充電」でもあるけれど、私の場合はまず「感覚を遮断する」という要素が大きい。疲れが溜まると感覚が疲弊する(身体の消耗にも繋がる)。チューニングがきかなくなる。感じなくていいことを感じてしまうし、それに加えて感じるべきことが感じ取れなくなる。なんというか、アンテナの故障という感じ。

こうなったらアンテナを使わないのが一番良くて、それが可能なのは唯一、寝ている間だけなのである。

もう一つ、ちょっと語弊のある言い方かもしれないけど、寝ている間は自分を殺しておけるというか、水の中に沈めておけるというか…自分の存在を認識しなくて済むのが便利だし、癒しに役立っているなと思ったりする。

自分自身が面倒だと思うことが増えた。

認められたい、愛されたい、怒られたくない、失敗したくない、あれが欲しい、これが欲しい、ああなりたい、こうなりたい…私は欲が多すぎるのだろうか。自分の内側から聞こえてくる声が、はっきり言ってやかましくて面倒臭い。他人とのやりとりだけでもけっこうカロリー消費してるのに、自分とのやりとりまでハイカロリーじゃこっちが持たない。

もっと透明になりたいな、と思う。どんなに水が澄んでいても、底に沈んだ土を引っ掻き回したら濁って見えるけど、眠っている間だけは、その濁りも沈んで落ち着いて穏やかになるような気がする。自分が存在してることさえわからなくなるから、私は眠っている時間が好き。


世の多くの人が、みんなでお酒を飲んで騒いだり、友人同士で愚痴を吐きあったり、カラオケではしゃいだりしてストレスを発散するらしい。私はその「発散」というのが苦手…というか、かなり元気な状態でないと、こういう発散的行動は取れない。他人と一緒ならなおさらだ。

人とのつながりや仲間のありがたさは重々理解したうえで敢えて言うと、つながり続ける世の中が、私はたぶんあまり得意じゃない。

たまに自分を世の中からぷっつり切り離して、なんか酸素カプセルみたいなところにひとりでこもる時間がないと、たぶんしわしわとしぼんで潰れてしまう(とはいえ、これを綴っているnoteは世の中につながっているわけだけども、少なくとも私のnoteは誰かのために書いているものではない)。


適度に放っておいてもらえるのが好きだな、とここまで書いてふと思う。年がら年中連絡を取り合うというよりも、「ああ、なんか疲れてるみたいだから放っておくね、必要なら話聴くから、いつでも声かけて」ぐらいの感じで付き合える人がいっぱいいると嬉しいな、などと。

都合が良すぎるだろうか。でも、私にはそれぐらいがちょうど良い気がしているし、こちらも誰かのために扉を開けておいて、必要なときに声をかけてもらえるような人であれたら、と思ったりもする。

そうするためにも、今夜はひとまず、閉じこもって回復をはかるのです。

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chie

noteはエッセイ的な雑文と写真×文章の置き場所。役立つ情報は特にありません。写真は個展3回開催経験あり、2018年10月パリ出展。 作品→https://shop.oikawachie.com/ HP→https://www.oikawachie.com

形のある世界、形のないわたしたち

ピントが合っていない「形のない写真たち」と、形のないわたしたちの内側の話。 世の中に存在する1つ1つのモノには、一応形があるのだけど、それを見て捉える私たちの内側には、形がない。特に、アタマとかココロとか呼ばれるものたちには。
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