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子どもと、おとな ①

病院の待合室で懐かしい本を見つけた。

「4年1組 命の授業 金森学級の35人」

初版は2003年。おそらく、私が読んだのは2004年の第一子妊娠中。灰谷健次郎愛読者としては、こういった教室モノのルポルタージュは大好物。読後、「いい先生がいるなあ」と、非常に心が温かくなった。しかし当時の感想は、単純に「いいノンフィクションだった」とそれだけ。

それが、どうだろう。今回、流し読みであれ10数年ぶりに本を開いて、序章から目頭が熱くなった。金森先生と生徒の交流、言葉の影響力、そして教室内の出来事の繊細な描写。記者は、子どもたちの心の移り変わりを素晴らしい表現力で記している。

「子どもというのは、天性の『手抜き』をするものだ。自分で必然性を感じなければ、いくらまわりがやれと言ってもまったく動かない。(中略)ところが、いったん自分たちが『これは面白い』とか『今は大切だ』と感じるや、抜群の瞬発力と集中力を発揮する。

そうそう。子どもってそう。
やらない。本当に動かないのだ。「天性の手抜き」とは、なんと秀逸な表現だろうか。私がこの本を再読して、一読目よりもさらに深い感慨を覚えたのは、きっと育児真っただ中のため。そして、子どもを通して「学校」と「先生」にもう一度関わっているからだろう。

親や学校の担任、習い事の講師に好意を寄せるわが子を見ていると、自分の幼少期、思春期がフラッシュバックする。
そして困惑。
「私はこんなにも大人を信用していただろうか」

私の子どもの頃、特に高校生の時はひどいものだった。
将来への展望が見えなかった。高校卒業後の進路の選択肢に何があるのか、自分に何が向いているのか、自分に何が必要なのか、その全てがわからずに迷走していた。
今思えば、一番の問題は相談できる大人がいなかったことかもしれない。担任教師とは全く信頼関係が築けず、親は家業が忙しく日々の算段に精一杯な様子。私は早く「学生」という身分から抜け出したくて、卒業の日をひたすら待った。

働いて再び学校へ通い、興味のある分野で就職した。結婚出産で退職したが、再就職をしてのちに同業界フリーランス業。自分には何の問題もないと思っていた。

が、しかし。

育児をするようになり再び「学校」という場所に関わって気が付いたのだ。私には「恩師」と呼べるような大人がいない。その影響か、誰かを「尊敬する」感情が欠落してしている気がする。

尊敬:その人の人格を認めてうやまうこと。その人の行為・業績などをすぐれたものと認めて、その人をうやまうこと。

いちばん身近な大人「親」への想いはどうだろう?
尊敬にあてはまるだろうか?
そんな自問自答して、少々苦しむことになるのですが、それは②へ続く。


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クニ∞∞ミユキ

仕事はライティングが主ですが、ブロガーではありません。NPO広報などの地域仕事が大好き。noteはブックレビュー・エッセイ・日記・雑文の日々感じることを書きためています。★日本財団ソーシャルイノベーションフォーラム×note 「#こんな社会だったらいいな」コンテストグランプリ★
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