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Syd Barrett - Barrett

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『ダイ・ハード』や『寅さん』が大好きだと公言する田舎者然とした(実際に、とても田舎者なのだけど)僕を、薄ら笑いで見下していた大学時代の自称映画好きの同級生ら(まあまあ奴らも田舎者だ)が好んでいたのは、『ショーシャンクの空に』とか『パルプフィクション』、『テルマ&ルイーズ』とか、『バグダッド・カフェ』的なやつだった。

それらの作品ももちろん好きだったけど、やつらと同じような浅はかな奴らだと思われたくないから、鑑賞したことすら伏せていた。完全に目くそ鼻くそではあるが、当時の僕は自らの滑稽さに1ミリたりとも気づいていなかった。

そんなこじらせ田舎者である僕と友人になってくれたのが、東京生まれ東京育ちのKだった。彼もまた、大の『寅さん』ファンであり、『ダイ・ハード』や『バックトゥザフューチャー』のファンでもあったから、いつも話は弾んだ。

そんな東京者である彼の視点で語られる『寅さん』が、僕には新鮮だった。彼から教わったことは山ほどある。例えば、東京に住んでいる人のほとんどが田舎者であること。「江戸最盛期の総人口は約100万人。東京の現在の人口は約1000万人。つまり、900万人は田舎者なんだ』が、彼の口癖だった。

「葛飾はギリギリ東京」という指摘も衝撃的だった。柴又は確かに東京の下町とされるエリアだけど、彼にしてみれば「ほとんど千葉というイメージ」らしい。

そもそも、東京の人は冷たいという印象を持たれがちだが、全然そんなことはなく、本物の東京の人は、寅さんちのように、基本的に情に厚く、お節介だとのこと。「東京モンは冷たい」というイメージは、そんな田舎が嫌で東京に出てきたか、追い出されてきた人たちのせいだ、とことあるごとに憤慨していた。

とまあ、そんな具合に「東京」という概念をすっかり覆されたのちに、改めて『寅さん』を鑑賞したとき、経済至上主義の社会に対するアンチテーゼといったような、山田監督の批評性というものも見えてきた気がする。

つい先日、そんな友人Kと久しぶりに『寅さん』について語りあった。話題はもっぱら、『男はつらいよ』の50作目、『男はつらいよ お帰り 寅さん』である。この作品を見たのが去年(2020年)の正月のこと。それからだいぶ時間が経過し、世界的にもいろんなことがあったけど、ようやくこの作品を肴に友人と語り合うことができた。

鑑賞直後、これはもう完全に蛇足だ、という評価を下していたが、友人と話しているうちに、どうもそうとは言えないのかもしれない、もう一度見てみようかな、という気になったのは、自分でも意外だった。

そもそも、桑田佳祐の冒頭シーンからして、見る気を削がれていたし、本編が始まってからも、山田洋次は実はもう死んでいて、別の人が監督をしてるんじゃないかと思うくらいに雑然とした画面に嫌気がさしていた。絵面がなんか構図的に不安定だし、基本的に汚い。それも今っぽいと言えば、今っぽいのでは、と友人。

繋がってるようで繋がってない回想シーンや、『ビフォア・サンセット』みたいな再会シーンとか、やっぱり山田洋次は死んでるんだけど、松竹が隠してるんじゃないかと思わせるような軽薄なシーンが多く、まあ仕方がないなと思っていたんだけど、それはそれで今っぽいのでは、と友人。

そしてきわめつけは、最後の空港でのシーン。泉との別れ際に、妻の死を告白してしまう満男である。寅イズムの継承者たる満男ならば、やせ我慢を貫き通すべきではないか! やはり山田洋次は死んでいるんだ! と僕はそう主張したのだが、寅さんに親しみを覚えつつも、そうはなれない満男の哀しさ、そして泉の優しさを表現したのが、あのキスシーンなのさ、と友人。

Kの反論すべてに納得しているわけではないが、もう一回見てみようかな、という気にはなったので、さすがは、東京の人だなと思った。いや、ちがう。彼は、多分田舎に暮らしていても都会者の思考ができる、柔軟な思考の持ち主なのだ、ということを四半世紀以上経ってようやく気が付いた僕は、田舎者以前に、ただの愚か者だ。

前置きが長くなったが、ジャズ好きだったKが、ロック好きだという僕にしつこくすすめてくれたアルバムが、Syd Barrettの2ndアルバムだった。当時は僕もそれなりに好きだったが、彼が僕にすすめる意図を理解できずにいた。実は今もよくわかっていないのだが、今になって少しだけわかったことがある。不完全の美に満ちた肌触りは、結構今っぽいのではないか、ということ。そして、『男はつらいよ お帰り 寅さん』もまた、そんな「わびさび」的作品なのだ、と。

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