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Laura Nyro - Eli and the Thirteenth Confess

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あれは20歳くらいの頃。いろんな人が歌ってるStoned Soul Picnicのオリジナルが聴いてみたくなって、手にとったのがこのアルバム『Eli and the Thirteenth Confession』だ。何がどうすごいのか、まったくわからなかったけど(今もよくわかっていないのだけど)、その感動は、セックス・ピストルズをはじめて聴いたとき以上の衝撃だった。

当時暮していた街のレコード屋にあった彼女のレコードをかたっぱしから買い集め、しばらくそればかりを聴いていた。気づけば、17〜19世紀の優れた音楽のような構造美と威厳、普遍性にみちている彼女の音楽以外、この世に必要な音楽などあるのだろうか、などと考えてしまうほどのローラ・ニーロ至上主義者になっていた。すると、それまで大好きだったトッド・ラングレンやキャロル・キングでさえ、所詮彼女の二番煎じ、あるいはローラの出来損ないなどと、見巧者ぶって切って捨ててみたり……。若気の至りである。

今でも彼女の思考の果てに生み出された表現を前に、僕はただ、恍惚とするのみ。批評などする気にもならない。そんな時にふと思い出すのは、かつて心酔していた金村修のこんな言葉だ。

「感性は考えた果てにあるんだよ」

「新しいんだけど、だから何だっていうの?」

「頭の悪い奴ほど、頭で考えるんだよね」

「分かってほしいっていう心境は捨てた方がいいです」

「作為を隠すことでモノが立ち上がってくるんですよ」

金村修の写真は、大友克洋の絵に比べるまでもなく、とても黒い。その暗さはディスチャージなど英国ハードコアバンドのアルバムジャケットを連想させるが、性急なビートに乗るメタリックなギターに、衝動そのものと言っていいヴォーカルが描くダークネスではなく、どこか淫靡で後ろめたいものである。

そんな金村の真似事をしてみたくなって、叔父にもらった古いミノルタをぶら下げ、1年くらい飽きることなく街の風景を撮り続けていたが、ある日ふと我にかえりカメラを物置にしまいこみ、以来20年近く、写真というものを撮ったことはない。僕の素人写真は暗いだけで、まったく美しくなかったから。ただ、ファインダーを覗き込み、フィルムに何かしらを焼き付け、それで悦に入っていただけ。若気の至りである。

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