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Ben Folds Five - Ben Folds Five

ベン・フォールズが8年ぶりにリリースしたアルバム『What Matters Most』をようやく聴いた。何度か繰り返し聴いた後、結局ターンテーブルにのせたのは、かつて彼が率いていたバンドの1stアルバム『Ben Folds Five』だった。

ニューオーリンズだろうが、後期ロマン派だろうが、ビバップだろうが、とにかくピアノという楽器を弾く人が大好きだった僕は、1990年代中盤に颯爽とデビューしたBen Folds Fiveをとても好ましく思っていた。ファンだった、と言っていい。

リトル・リチャード、ジェリー・リー・ルイス、あるいはテリー・アダムスよろしく、ピアノを弾く、というよりもピアノに手を叩きつけるような激しいパフォーマンスとは裏腹に、繊細なハーモニーと、ポピュラリティのあるメロディで彩られたウェルメイドな楽曲は当時大ヒットを記録した反面、マニアックなロック好きには敬遠されていたように記憶している。

そういや、なぜだったのだろう?

あまりにポップだったから? 

売れたから? 

それの何がいけないというのだろう? 

一般に商業主義が批判されるのは、行きすぎた営利主義がモラルや法律を犯した場合だ(このあたりを深掘りするとややこしくなるような気がするので割愛する)。これをポピュラーミュージックに当てはめるならば、歌い手がステージに裸で登場してパクられるとか?(話題にはなるだろうが売れるかな?)、レコードジャケットを純金製にして投資目的で買わせるとか?(重そう)となるだろうか。違うか。

彼らが、批判の対象となるのはおそらく、マーケティング主導の音楽制作ということになるのだろう。流行りのサウンドをとりれた楽曲に、世相を反映させた歌詞をのせ、ファン心理をくすぐるフォーマットで売る、というような……。

議論は堂々巡りになってしまうのを承知で書くが、だから、それのどこがいけないというのか。アーヴィング・バーリン、ハロルド・アーレン、ジョージ・ガーシュウィン、コール・ポーターらを輩出したティン・パン・アレーや、バート・バカラック、ニール・セダカ、キャロル・キング、エリー・グリニッチらが活躍したブリル・ビルディングの存在すら否定し、彼らの純然たるミュージシャンシップにケチをつけるつもりなのだろうか? 

もちろん、こうした制作システムにおいては、紛い物の駄作が輩出されることもあっただろうし、それが耳障りだと感じた人もいたはず。だが、その多くは売れずに淘汰され、今も埋もれたまま。市場調査による情報を参考にしながら、作家の個性と創意工夫を周到に忍ばせた名曲の数々は実に音楽的だし、今も我々を楽しませてくれている。

基本的にはヴォードヴィル調なオールドスクールなメロディだけど、1980年代の米国で思春期を過ごした者らしいフラットなメロディを織り交ぜながら1990年代の「ピアノ・マン」を体現していたベン・フォールズの才能を、そんな作家たちの系譜に位置付けることもできるはずだ。

"Underground"や"Philosophy"のような優れて音楽的な楽曲を聴いてもなお、「大衆うけはしそうだね」とか「商業主義的だ」などと批判する人もいるかもしれない。だがそれは、大衆的でありながら優れて音楽的な作品を作ることの難しさを知らない人の所業だ。シェーンベルク以降の芸術音楽の価値観に囚われすぎている人が多いのかも。個人的には純粋芸術的な価値観的にも面白い作品だと思うけど。



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