「この場でケツ出してウンコ撒き散らしてえな」と思うけど、やらない。やらないでいるから、なんとか人間が、社会が。 20240205

ネカマがやってる将棋実況を最近よく観る。めちゃくちゃ強いから勉強になる。

ゲザンの練習を寝過ごす。
12時から14時のスタジオだったけど、確認不足で14時から16時と勘違いしていて、そして14時半に起きた。全部ダメ。全部うまくいってない。

普段スケボーやってる人って、雪降ったらスノボに乗り換えるのだろうか。

その人がどれだけいけないこと考えていたとしても、考えてるだけならどうぞお好きにって感じ。俺たちにはその自由があるから。
でもそれをほんとにしちゃったらダメなのよ。俺たちにはその自由がないから。
みんないけないことしたいな〜思ってるけど、しない。みんなしっかり人間だから。
いけないことしたいな〜思っていけないことしちゃったら、それは人間じゃない。

俺たちは「思うだけ」と「実際にやっちゃう」のうっすい境界線に沿って、ギリギリ生きているんだなとつくづく思う。
やめようと思えばいつでも人間やめれてしまう。ほんとにギリギリの中を生きている。

オモコロの永田さんが「誰も加湿器にオシッコ入れない」みたいなツイートをしてたことを思い出す。
みんな心の奥底で、加湿器にオシッコ入れたいと思ってるけどやらない。みんな社会に生きていて、みんなギリギリ人間だから。
それってなんかすごいことだなと思う。「やらない」と「やる」の中で、なんとかしがみついて、人間であろうとしてる。
だから、実際にいけないことをしちゃう人がいるのも、すごくわかる。彼らの切迫さみたいなものも、ちょっとはわかる。
でもやっちゃダメなのよ。
自由にやるってことは、自由にやるってことじゃないの。俺たちの自由は、動物的な自由じゃないの。うんちしたいっつってそこらで下痢便ビチチチじゃないの。したいならどうぞ、裸になって、森の奥深くへ、2度と人様に顔見せないように。

常識や倫理への懐疑が日常の議題になることが多い。「浮気はもしかしたら悪くないんじゃないか」とかよく考える。周りも、実はよく考えているんじゃないかなとか思ってる。ただ、その結果どんな結論が出ようと、そこに自分が納得しようと、やっちゃダメなわけですね。
自分らの社会と、思考における社会の棲み分けをしなきゃダメなんですね。
メルヘン思考の、脳みそにスクラビングバブル詰まってるやつが、やっちゃいけないことをやっちゃう。こっちに戻っておいで〜〜‼️早く〜〜〜‼️‼️‼️

みんなで肉寿司握って食おう。

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