小説「インポテンツ・ベイビー」#1

「ぷしゅ~!」

意味のない、あるとすれば屁に酷似しているだけ、そんな音が口から漏れてしまった。目の前にはダイニングチェアに座った妻。テーブルに右肘をつき、手のひらに顎をちょんと載せる、お得意の姿勢で僕を見つめるその目は何かに似ていた。かすかな殺気をはらんでいて、思わず息を飲んでしまう。

『宇宙戦艦ヤマト』のデスラーの目。

妻の目はデスラー総統のような目であった。それから僕は、デスラー総統がしくじった部下を容赦なく殺すように、カパっと音を立ててマンションの床が開いて、宇宙空間へ放り出される自分の姿を思い描いてしまう。

享年45。短い人生だった。

綺麗好きな彼女は、中古で買った3LDKマンションをわがもの顔で飛び回るハエや蚊をとらえるとき、そんな目をする。普段は濃い茶色の眼球が色彩を吸い込むような黒色に変わるのだ。彼女からすると僕は虫と同レベルなのかもしれない。9月も終わろうとしているというのに、マンションに差し込む西日は真夏のような暑さで、生き残りのヒグラシが一匹、冥界にいる仲間を惜しむようにカナカナ鳴いている。

「ふざけているの?私の話、聞いていた?」
「聞いてた。聞いてた。いやいやいやちょっと驚いてしまって」
間違いなく、聞いていた…はずだ。だが、妻の突拍子もない言葉は、会話のレールから完全に逸脱していて僕はついていけなかったのだ。テニスのラリーの最中、対戦相手が野球の硬球を打ち返してきたら、誰だって、変な声のひとつやふたつ出るものじゃないか。

文句のひとつ、ふたつ、言いたいところを、ぐっ、とこらえて口から放屁するにとどめたのだから、勲章をくれ、とまでは言わないけれど、見逃してもらいたい。
「妻が真剣に話し始めたら、夫は一語も聞き漏らしちゃいけないの」
「手帳はいるかな?」肩をすくめてみる。
ダイニングテーブルには、「入浴時のお供に」が宣伝文句のポータブルタイプの液晶テレビ。安室奈美恵のラスト公演の熱狂を伝える夕方のニュースが流れている。40才での引退宣言。彼女の引退に対する「潔い」「カッコいい」という声のなかで、「40才でリタイアできるなんて羨ましい」と妬んでいる者の声はかき消されてしまう。僕の声だ。

(つづく)
#小説 #向田邦子

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