永遠の速度

健人くんは永遠に夢を映す人だ。
「永遠」という概念に夢を見て、そしてファンの瞳に永遠の夢を映す。Forever Lはその名の通り永遠の愛をテーマにしているし、Hey!!Summer Honeyだって「夏から永遠に舞い」と歌っている。Missionだって1000年という途方に暮れるような未来の時代からやって来たアンドロイドの歌だ。もちろん永遠を歌っていない曲もあるけど、ここから推し量れることは少なくとも健人くんは永遠を好意的に感じているし、そして信じている。普通の人が口に出すと持ち重りしてしまうような「永遠」という概念を、春の日に羽が舞うように軽やかに歌う。終わりの無い、エンドロールがいつまでも流れない映画。

風磨くんは一瞬に夢を映す人だ。
あの時あったあの事、その時の感情、匂い、温度、そういう時間の経過と共に溺れ消えゆく繊細な感覚を丁寧に掬い上げて輪郭を描き、名前を与える人だ。決して閉じ込めることは出来ないと知りつつもあの夏の海の匂いを小瓶に詰めて抱き締めて眠るような、そういう過ぎ去った時間への感傷の美しさを知っている人だ。健人くんが映画なら風磨くんは写真だ。一瞬を切り取って永遠にする人だ。いつだかアラーキーが「写真というのは未練だ」という写真論を講じていたけど、これは風磨くんの作品の根底に流れるものの一つであると思う。

要するに私にとってふまけんとは出会った時から永遠と一瞬のシンメで、映画と写真のシンメだった。どんなに近づいたとしても決して交わることのない平行線だと思っていた。なぜならお互いがお互いを内包し得ない概念だからだ。だから2人で同じ1つのステージを作り上げるのは無理だろうと諦めていた。5月25日までは。「一生一緒に遊んでくれよ」と聞くまでは。

私にとって「一生」という言葉は極めて「永遠」に近く、中島健人の象徴だ。噛み砕くと「死ぬまでの時間」なんだろうけど、具体的な終わりが明示されていない点に関しては永遠的な抽象性を秘めている。
2015年の風 is a doll?で「最後まで、俺が死ぬまで着いてきてね」と言った風磨くんが、一生とは言わなかった風磨くんが、どんな気持ちであの日一生と歌ったのだろう。もちろん韻の関係に依るところが大きいことは分かっているけど、それでも私はあの日の「一生」に夢を映す。あの日、ただ前だけを目指して真っ直ぐ鋭く、痛いくらいに疾く伸びる二つの平行線が少しだけ交わった気がした。

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「永遠」だって、誕生した瞬間からずっと永遠なのではない。永遠にだって距離がある。速さがある。時間がある。期限がある。老いがある。永遠に辿り着くまでに2人はあとどれくらいの瞬間を重ねるのだろう。今、2人は永遠のどの辺りにいるのだろう。

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