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(私が考える)平成のあいだに日本人の自己肯定感が下がった理由のいくつか(熟成下書きシリーズ①)

日本人は自己肯定感が低いという言われ方は多分平成のあいだに一般化したようです。
それは日本人の自殺率の国際的な高さとともによくいわれることのようです。
今日は雑記というより、やや考察系の文になります。
自己肯定感の低さみたいなはなしが、なんで日本人一般、あるいはその大半ごとひっくるめて語られるようになったのか。

日本人の自己肯定感の低さというはなしで、平成時代、一番記憶に残ってるものといえば、(つくる会)が主導したいわゆる自虐史観というはなしでしょうか。つまり第二次世界大戦中に日本がアジア各国でしでかしたことを否定的にとらえるからその子孫である我々日本人は自己肯定できないんだというはなしです。ぼく個人は、つくる会とその賛同者がその主張で盛り上がって歴史の教科書にまでその思想を反映させようとしてたとき、日本人一般の自己肯定感の低さがそのようなところに因果付けされてるのをみて「ずいぶん壮大なはなしだな、その因果付けが絶対間違ってるとも言い切れないけど…」とやや、いやかなりの違和を感じました。もちろんその因果付けが絶対間違ってるとも言えないけど、個人的にはあんまり関係ないような気がしました。ひとつには、そのころ働いていたモールで何人かの中国人と自然ななりゆきで仲良くなったのですが、「日本人の第二次世界大戦のころの蛮行は到底許し難い、それゆえわたしは永遠に日本人を憎む」みたいな人は皆無だったのです。ぼくのほうも「われわれ日本人(祖先)はあなたがた中国人に大変申し訳ないことをした、だから謝らなければならない」という気持ちにはとくにならず、フツーに中国のひとたちと仲がよかったのです。
もっとも働き場所を求めて日本にくるくらいですから、元々やや親日的な人達だったのかもしれません。(つくる会が流行ってたころは当時僕が働いていたモールにくる中国人は出稼ぎさんみたいな人が多かったんですが、あとのほうでは留学生(大学生、院生)が主流になりました)たまたま、僕は中国人と仲良くなりましたが、これが反日憎悪で盛り上がってるアジアのどっかのコミュニティーにぼくがぶん投げられればまた違った考えに至ったかもしれません。しかしいずれにせよ日本人の自己肯定感の低さが第二次大戦時に当時の軍隊が執った作戦の失敗を否定するからだというのは僕の脳みそではついていけないはなしでした。それは僕が日本国に責任がある政治家とか超一流の知識人とかではなく一介の無名の庶民だったからかもしれません。
ぼくがたとえば村上春樹クラスの文化人だったらまたちがった意見を持ったかもしれません。いや持たなければいけない(くなる)のかもしれません。

さてでは、日本人の自己肯定感の低さは何に起因してるか?
当節流行った説に違和を感じるんであれば、僕としても何か考えないと座りが悪いです。僕もなにか考えなければなりません。


僕がこれから考えてみるところも人によっては、僕が自虐史観の因果付けに感じたのと同様の違和を感じさせるかもしれないし、ひょっとしたら噴飯ものかもしれませんが、間違っててもいいから自分なりの考えを述べることにチャレンジしたいと思います。そう、考察系(と呼べるほどのものか分からないけど)の記事は僕にとってはいつもチャレンジなのです。

前置きが長すぎました。
日本人の低い自己肯定感…
これは僕の生涯に範囲を限定すれば、やっぱり平成になってから聞くようになったと思います。
平成になってそれまでと決定的に変わったことはなんでしょう?
それはバブル経済が崩壊して、モノとカネがそれまでより人々に回りにくくなり結果的にモノとカネが人々に対して求心力を失ったことです。
商品市場が人々の意識を引き受けなくなったのです。
これはいわゆるテレビを始めとするエンタメ市場もそうです。
モノ、商品、カネ、娯楽が昔程人々の注意を引きつけなくなったのです。
いやこれらのもののいずれにも意識が向きにくい人が増えたのです。
これらのもののいずれにも意識が行きにくいひとの意識はダイレクトに人(または自分自身)に向かうようになったのです。
カタログの商品というのは、当たりハズレはあるものの出した額に相応の満足が与えられることが多いでしょう(ソフトについてはこの限りではありません。たとえば、評判の小説が自分には全然面白くないということはあるでしょう)
これが人にダイレクトに向くとどうでしょう?
お母さんに、娘に息子に、職場の人に、お客様に、通行人に、テレビに出てくる有名人に、自分の思う通りになる人はほとんどいません。
「ウザイ」という言葉が生まれたのも平成だと思いますが、他者のこちらへの接触はこちらの考えてるシナリオと大きく食い違ってるとしばしストレスなこともあります。人々の意識からモノやサービス、カタログやお金等がとりあげられてしまい。直接人のことを、または関係的現実について考えることが増えたのです。
また、他者について考えるというのはそれがポジティブな方向のものであっても、結局、関係的現実について考えることにつながってしまうことも多いでしょう。そうすると二人の世界に閉じこもれなかった場合は何らかの不愉快な関係的現実について考えることにつながってしまうとかです。
これはたとえば職場にいる好きな異性のことを考えてたら、いつの間にか職場の不愉快について考えてしまっていたとでもいうケースを考えてみると分かりやすいでしょうか。
人は他者や関係的現実について、または関係的現実における自己について考える時間が増えているのです。つまり、それはモノやカネがむかしほど、人間の注意を引き付けない、アースできなくなったこととも関係してると思います。
バブルの崩壊とその後の不況で、モノやカネが人から取り上げられてしまったのです。

もうひとつあります。
それは社会や会社の進歩•成長に人々の意識が同化しにくい、またはこれに懐疑を持ちやすい時代状況になっているというのもあるのではないかと思います。バブルの崩壊くらいまでは、確かに社会は進歩するものだったのです。人類が月面に到達し、日本でオリンピックが開催され、テレビというものが生まれ、しかもそれが一般家庭に行き渡るようになっていく、自家用車をかなりの家庭がもつようになり、クーラーなどのエアコン装置が公共施設やサービス機関、電車やバスの中だけでなく一般家庭でも当たり前になっていきます。(むかしは、一般家庭はおろか、公共の場所にもまずクーラーはなかったのです)自動車を中心に日本の製品が欧米市場で売れ始めるようになり、日本の貿易黒字は国際問題のひとつでした。海外に庶民がふつうに渡航できるようになり、会社もパナソニックにソニーにNTTにJTBに人気のところがいっぱいあり、中内功さんのダイエーをはじめ一般の商売も大繁盛したのです。特に個人がこれといったものを持っていなくとも、会社に属しているだけでも人々は給料以外におこぼれにあずかれたのです。しかしそういう社会や会社の進歩がにわかに疑わしくなったのが、バブルの崩壊とそこをスタートにした平成不況だったのではないでしょうか?
商売は繁盛するより、潰れたり倒産したりが普通になり、銀行も貸付を渋るようになり始めました。社会の進歩もひと段落し、パソコンや携帯、スマホの普及を除くとこれといったこともなく、社会はオウム事件が起こったあたりからネガティブな側面の記憶ばかりが増えていくです。
社会や会社の進歩という無条件に近い前提はいつの間にか姿を消していたのです。
こういった状況の中、会社員は社畜ということになり、ロクなものではないぞと考える人が増加し、個人が個人としてまったく個人的にその魅力や能力を開花させサバイバルを考えざるを得ない人が増えてしまったのです。しかし社会状況は一部の運と才能がある人はひと山あてているようですが、どちらかといえば個人商売にそんなに好意的な状況だとも思えません。また、個人商売的なサバイバルには本来学校のようなものもあまりないのです。このような状況では、一部のひと山当てて波に乗れた人を除けば挫折感を味わいがちです。
要約すると、社会や会社の進歩・成長は疑わしくなり、個人がそこに同化しづらくなり、個人は個人サバイバルを強いられがちな状況に置かれてる人が増えたが、社会状況全般は個人商売を後押しする状況ともいいがたく、挫折感を味わってる人が増えているということです。
もうひとつは、最初の段落で述べた、バブルの崩壊とそこから始まった不況で、人々の意識からモノやカネが奪われてしまい、アースの回路が減ってしまい、人は他者について、つまり関係的現実について考える時間が増えてしまい、それがストレスになっている場合もあるということです。

以上のふたつが、わたしが(個人的に)考える平成のあいだに日本人の自己肯定感が下がった理由になります。

(補足)この他にも、親子関係における挫折(毒親的トラウマ)とか、学校や職場でのイジメ的トラウマや、友達がいない、彼氏、彼女ができないといったことも関係してるかもしれませんが、それについてはパートⅡとして、将来、また考えたいと思います。

この文章は、ではどうすればいいのかという処方箋やこれからの方向性を示唆することが目的ではありませんので、ここで終わりますが、この文章が現状の分析でしかなかったとしても、分析は分析としてそれ自身意味があると思います…ということで今回はここで筆を置かせていただきます。


(あとがき)まったく個人的なはなしになりますが、下書きが、つまり書きかけの文章がそこそこたまってしまったので、しばらくは新規書き下ろしより、途中で止まってしまっている下書きの完稿をやろうかなと考えています。つまり、これは熟成下書きというタグに相当するものです。
むかしは一発書下ろしタイプだったんですけど、ここ数ヶ月下書きが溜まってしまっています。
書きかけってどっかで手をつけないと削除しない限り永遠に未完なんで、ここらで棚卸しというか在庫整理をしようかなと考えています。
(下書き開始、5月25日21時46分  完稿、7月1日11時45分)
この記事を書き始めたきっかけは実は最近いろんなnoterさんの記事を読むと、自己肯定感の不足に悩んでいる人が多いみたいで、自己肯定感の不足ってでは何に起因してるんだろう、って考え始めたことです。他のnoterさんの記事がきっかけです。それを考えたのが5月の終わりでしたが、途中でとまっていました。まぁ、そういう悩みこそが若さというやつさ!といえば確かにそうてじょうが、それだとあまりに実もフタもないので自分なりに考えてみました。
ところで、僕も自己肯定感が低いのが悩みなんで、僕もまだ若いのかな?(自分は四十代後半です)……なんて、寒いオヤジギャグはこのへんにして文章を締めたいと思います。

御一読ありがとうございました。

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