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システムであるが故のそれ自身の背理と矛盾

社会も、そこを生きる僕たちの人生も矛盾が累積している。

年金のシステムひとつとっても…

税金の徴税法とその使い道についても…

ブラックな組織と、そこを離れたい気持ちを抱えつつ、しかし離れて生きる自信もないが故に思い切った選択を保留にしている人…

私たちは日々矛盾を突き付けられている。


千年帝国は強権的な政治野心家が一度は夢想する社(やしろ)だろう。
しかし、想像主はおそらく私たちに永久機関にも似た千年帝国という安逸をお許しにはならなかった。
永久機関の夢想はつねに挫折してきた。
もっとも、千年帝国に限りなく近い社会も、ある条件が成立すれば、ひょっとすると可能かもしれない。
それは、私たちの社会がブッシュマン文明並みにシンプルになることである。
私たちが、もしブラジャーやパンティーを脱ぎ、ブッシュマンの原始に帰れるなら、多くの悩みはその半分以下になり問題はよりシンプルになる(ブラジャーとパンティーと書いたが、この文を書いてるわたしは男性であり、女性用の下着は今日現在までは身に着けたことがない)
いや、それはともかく、私たちの社会がブッシュマン並みになるんであれば、資本主義や帝国主義の侵略を受けない限り、千年の安定も夢ではない。
しかし、ブッシュマン並みへの回帰が不可能だというんであれば、社会であれ、民営組織であれ、コミュニティーであれ、個人の人生であれ、流れや運、時期が悪ければ、たちまちその選択が抱える背理や矛盾を突き付けられ、あるいはそれに包囲される。

先日、今度の5月から変わる日本の元号「令和」が発表されたが、社会システムの矛盾とは、たとえば、終戦までの「昭和」を考えると分かりやすい。
経済社会の矛盾から、満州事変、二二六事件、と軍事主義へ方向転換した時代の社会矛盾は、読者を日本人に限定すればわざわざここに書くまでもないだろう。(もちろん戦争に一路突走ってたので矛盾は少なかったという見方も可能でしょうが)
戦後の昭和は、瓦礫から立ち直る経済復興とその繁栄が中心になったが、それに異を唱える人は安保条約のあたりで起こった学生運動を除けば、そんなに多くなかったので、戦後の昭和は、どの時代と較べても、社会は、その背理や矛盾を突き付けられる機会が少なかった。
戦後の昭和は、それ故暮らしというものがあり、この時代をよい思い出と回顧する人は後を絶たない。

今日、システムの矛盾は知らないうちに大きくなりすぎてしまった。
それは社会や集団組織についても、個人の人生選択についても言えるだろう。
私たちの多くが、完全な自営業や自由業を選択するより、一時的にでも、または兼業的にでも組織人であることを選択するのは、完全な自営業や自由業をやるのは、その人の手に余るからである。しかし、今日では、組織人という選択も、マスオさんやノリスケさんのような平穏を享受できる割合は限られている。カタログや消費というカタルシスが少なくとも昔より機能不全に陥ってる今日、成員にひたすら我慢を説くのも難しくなっている。しかし、人々の所得が減っているんでは、自営や自由業にも追い風とは言い難い。

狂っていたのはシステムだったんだ……
しかしシステムを一人の成員がこれを変えるのは実際問題としては難しい。
末端の組織人に過ぎない人々には、こういった場合「辞める」という選択以外事実上ないことが多い(辞めることすらも難しいというケースも多い)
トップの人がトップダウン的に何かを改善しても、目に見える結果にはつながらないことも多い。

そうすると次のことが見えてくる。
システムというのは、それ自体にもともとほとんどの場合、背理と矛盾を含んでいる。
戦後の昭和は社会も個人も、少なくとも平成最終年の2019年と較べれば、システムの背理と矛盾を突き付けられる機会は少なかった。しあわせな時代だったかもしれない(もちろん、過ぎ去った日々は良く見えるという錯覚の一種でないとも言えないが)
つまり背理や矛盾を含まないシステムは存在しないのだが、どの程度背理や矛盾を突き付けられるかは、先ほど述べたように、流れや運、時期にもよる。
想像主は、おそらく私たちに永久機関や千年帝国の安逸をお許しにはならなかった。
千年帝国に限りなく近い文明は、おそらくだが、女性が化粧もしないブッシュマン文明のようなシンプルなシステムの中にしかないのかもしれない。

しかし、じゃあ全てのシステムは欠陥を孕むというのであれば、システムなんか一切持たなければいいじゃないか、といえるか?
いや、でも、完全無政府主義に耐えられるのは、10人に1人いるかいないかの無頼漢気質の人くらいだろう。
その日のフィーリングで全てを決める自由人も、多少はそれでも何らかのシステムを持っているだろう。
私たちは実際、何のシステムも持たない、あるいは持とうとしないのは難しい。
十代か二十代…まだ若ければ、選択を保留にできる場合もあるだろう。
つまり、システムを持とうとしたり、試行錯誤したりを保留にできる場合もあるだろう。わたしも二十代の多くの時期を引きこもりとして過ごしてしまい、そのため経済社会では出遅れてしまって、収入や地位とかに関しては、同年代の平均的な人よりかなり苦戦しているが、しかし、二十代くらいまでは保留にできることのいくつかも、私くらいの年齢(四十代後半です)になると、選択と行動の保留にも限界があり、陥穽や欠陥(同じことか?)または矛盾や背理があろうとも、何ものをも選択しない、あるいは選択を保留にし続けるというのも難しくなってくるのだ。

どのシステムにも背理や矛盾はある。
最もそれが少ないのはブッシュマン文明のようなシンプルなシステムだろう。
どのシステムにも、言い換えれば、どの選択にも背理や矛盾があるんであれば、背理や矛盾がない選択を探そうとするのは徒労か時間を捨てているのと同義の場合もあるだろう。
もちろん誰でも失敗は避けたいし、二十代くらいまでであれば保留もひとつの手かもしれない。
私たちは、自分が逞しいバイタリティーのある人とは到底思えなければ、また自分を過小評価しすぎていれば、背理や矛盾をなるべく背負わないで生きようとする。しかし、その姿勢がべつの背理や矛盾を膨らませてもいる。
背理や矛盾を一切背負わないで生きようとするのは、あまりに虫がよすぎるのかもしれない。だって、どの選択にも何がしの背理や矛盾が含まれているのであれば…
ブッシュマンのようなシンプルな文明に生きてるわけでもない私たちは、おそらく背理や矛盾から逃げられない。
どのシステムにも、言い換えればどの選択にも矛盾や背理はある。
しかし、選択の保留や延期には若ければ別だか限度があるのではないか…


(あとがき)矛盾や背理の少ない選択というのは、生涯獄から出てこれないような極端な選択をしようとしてるのでなければ幻想ではないでしょうか?
もちろん、これを読んだあなたが明日「ラーメン屋をやろう!」と突然思い立って、会社を辞めたとして、そのあとに起こる出来事について責任は負えません。この文で言いたかったのは、矛盾や背理を含まないシステムや選択はないだろうということです。あなたの明日はどの方角にあるのか?

捨てる神あれば拾う神あり
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木月まこと

人生哲学、文学、精神病理学、占い、音楽、語学、その他雑食主義的に首を突っ込んで、これといった専門はないのですが、日々いろいろなことを考え、書き、その一部を投稿しています。この活動を収入とリンクさせる道も模索しています。(昨年度のアーカイブはマガジンとして500円で販売中)

一般記事(140字以上・長文)2019.1.1~

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