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日本から鬼が消えた。


私が子供の頃は、まだ節分の風習があった。
ボール紙に鬼の顔をクレヨンで描いて、耳の部分に穴をあけ輪ゴムを通し、兄弟で「鬼は外っ!」とか言いながら豆を投げあった。
年の数しか豆を食べられない習わしなので、7個しか食べられないことに不満を感じ、早く30個とか食べられる大人になりたいと思ったものだ。
その節分の豆まきが功を奏したのかどうかよく分からないが、日本社会から鬼が消えた印象を受ける(印象でしかないが)

イオンに吸収されて、すっかり鳴りを潜めたスーパーダイエーの創業者故中内功さんの逸話を三十代の頃新聞で読んだ。それによると、九州かどっかの新店舗開店日に視察に訪れた中内さんは、店に出されていたいかれたモヤシを見て煮えくり返り、そのモヤシを青果の社員の頭にざるごとぶっかけたというはなしだ。新店舗開店日に社長にいきなり頭からモヤシをぶっかけられた当の社員にしてみれば、一生の傷になってしまったかもしれないし、スーパーなんてもっとまったりしたファミリアなノリの方がいいんじゃないかという意見もあるだろうし、そういうど真剣なノリはバブル経済期だからあり得たことだろうという見方も可能だろう。しかし、私は個人的には「すごい、本気で仕事をしている」と震撼してしまった。
出版社は今日のようなご時世だと、どうしても企画は採算がとれるものに悪循環的に偏っていく。編集者もそんな出版社の趨勢に危機を感じ、その商売に見切りをつけ、仕事のかたわら作家デビューを目論む人は増える一方だろう。そういうスタイルもたとえば櫻井秀勳さんのような形で結実すればまた別だが、しかし昔は鬼編集者というものがいて、これはNHKのラジオで聞いたのだが、遠藤周作をはじめとする名だたる作家を育てるため妥協を許さない鬼編集者がいたというのだ(名前は忘れてしまったが)

私は様々な事情で四十代後半の今派遣をやっていて、実は二十代の頃も派遣をやっていた時期があったのだが、当時は今と違って、派遣の現場にもたまに鬼がいた。
物流現場や土木現場には、たまに、おっかない顔をして、ただ椅子に座って、腕と足を組んで睨みつけているだけの監督者がいる現場に行くことが何回かあった。
今日的観点でいえば、それらのただ椅子に座って睨みつけているだけの監督者は存在そのものが不合理で、何でそんな人に給料が支払われているのかまったく理解されないだろう。確かに、バイトでしかない作業員にしてみれば、おっかなくて気が散るし、作業効率の点からも疑問の余地がある。
ただ昔はそういう鬼がいる現場もあった。私は運よく、その鬼が雷を落とすところは見ないで済んだが、要領が悪かったので、鬼監督者から数度手厳しく注意された。
今日、そういう親分的な鬼監督者がいる現場は激減し、鬼は、モニター監視と万引きGメンにも似た顔のない人にとって代わられた。

私が行ってる派遣バイトをはじめとする社会の様々な領域に鬼が復活すればよいのだと主張しているわけでは必ずしもない。
確かに、今日、ある意味鬼が不要なほどまじめな人が多い印象を受ける。商業施設やコンビニ、サービス機関の接客や声出しなどで、あの頑張りは果たして貰ってる給料で報われているのかという感じの人を見かけることも多い。
そうすると、必要なのははたして鬼か?という疑問も生じる。
しかし、その一方で、今日人々は、あまりにも簡単に譲りすぎてると思うことがある。



ある雑誌の編集部が大学生に訴えられて、簡単に謝罪したり編集方針を変えてしまったり、コンビニが色々なところに圧力をかけられて、エロ雑誌の全面撤去をしたり、いくらクレームに迅速対応が今日のビジネスの死活問題的な常識だからといって、そんなにあっけなく今までやってきたことを譲ってしまっていいのかと残念な気持ちでいっぱいになることもある。
無論、強者が弱者やご婦人たちの悲鳴を無視したり切り捨てていいんだということにはならないだろうし、人が傷つこうが苦しもうが構わずなにをやってもいいんだということにはならないだろう。
それにしても、あまりに簡単に譲りすぎている。
企業主体ではなく、フリーランスの表現者のはなしをすれば、それらの人々は味方も少ないことが多いだろうし、ネットを使って表現活動をしていれば有頂天になる材料より孤独やノイローゼになる材料のほうが多いかもしれない。そこで表現者は、炎上した時の謝罪の文面を5パターンくらいあらかじめ用意する。いや、それはいくら何でもオーバーだが、しかし、そうして妥協の技術ばかりが上手になっていく。
でも、たとえば昔あった日米開戦のような絶望的悲劇がおこるよりは、むしろ妥協のほうがいいのでは?
そうでないとは言えないし…
じゃあ、あなたは、フランスで起こった風刺画編集部に向けられたテロ事件みたいなことがあっても、特定の編集方針を貫けるのか?
確かに、読み捨てに近い形で消費されてる雑誌のために、銃口を突き付けられても編集方針を貫き通せるかなんて問われれば、まったく自信がない。
何と面倒な時代を生きているのだろう…
いや、この文章の目的は嘆きの公開と共有ではない。
そうではなく、人々の人生態度が、あまりに無節操にブレまくっているのは、ひとつには、もしかすると日本社会から鬼が消えたからではないか?
そんな風に感じている今日この頃であります。
別に今の日本社会に鬼が必要だと結論づけてるわけではありませんし、鬼の再来を切望するといってるわけでも必ずしもありません。

節分の豆まきは功を奏し、社会から鬼が消えた。
鬼が消えた社会の趨勢いかに…

(あとがき)
今日も、何かの結論を出す論考系の文章ではなく、雑感、雑記、エッセイとでもいったものになりました。
もちろん、今の日本になくなったのは鬼じゃなくて、優しさや思いやりだとか、それぞれに意見が生じたかもしれませんが、そうであれば、みなさまもなにか記事を書いてみて下さい。
今日は、ふた昔くらい前にいた鬼のはなしをしてみました。

御一読ありがとうございました。

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