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やがて哀しき日本三景。

「生まれたところって行ったことないな」と言うと母親から「じゃあ今度の春休み、恒例の一人旅はそこにすれば」という提案があった。中学3年にあがろうとする時で今回は関東を出たい気持ちも少なからずあったので「ああ」と応えると、当時暮らしていた二軒長屋のお隣さんが同じところに家を建ててまだ住んでいる、千葉に出てきてからも連絡を取り合っていて話せば快く泊まらせてくれるはずという。Sさんというそのお宅には二つ三つ上の男の子がいて、よく面倒を見てくれたのだというのは聞いていた。

トントン拍子で話は進み、1974年春休みの一人旅は塩竈で一泊する事に決定。塩竃というところは教師になった父親の最初の赴任地なのだが、千葉に移ったとき私はまだ3歳。三つ子の魂とはいえさすがに記憶の欠片もない。

仙台駅から仙石線に乗り本塩釜下車、まずは遊覧船で松島を観光。船尾から追いかけてくるカモメに向かってパシャパシャとシャッターを押した。しかし寒いぞ、生憎トレンチコートなどというハードボイルドなものは纏っていない。オンリーロンリーな一人旅を完成させるには坊主そりゃ10年早いぜなのだ。

母親のいう通りSさん一家には歓待していただき、互いの近況や始めたばかりのギターの話などで盛り上がった。Sさん宅が一足早くテレビを買ったので、両親はよく見せていただいていたらしい。お互い足りない物を融通しあうのはごく当たり前のことで、地に足がついた昭和30年代前半の暮らしがそこにはあった。ちなみにSさん宅(すなわち自分の生家のあたり)は塩釜湾を見下ろす小高い丘の上にあったのだが、父親から聞かされていた塩竃時代の話は「1960年のチリ津波の時は、陸に打ち上げられた漁船をお前を背負って見に行った」というもので、旅の役には全く立っていない。

Sさん宅をあとに翌日は仙台へ。仙台といっても青葉城くらいしか知らないので行き先に迷うことはない。まだ大河の一滴も落ちていない1974年の城跡の公園は人影もまばらで独眼竜の騎馬像もどこか退屈そうだ。しばし一緒に市街地を望む。いい眺めだけれど10分も見ていれば飽きる。中学生の一人旅なんてわざわざ退屈をしに行くようなものなのだが、どうするかを人に聞かずに動くところに価値があるのだからそれでいいのだ。支倉焼を買い求めて東京へ向かった(憶えていないが母親はきっとリクエストしていたに違いない)。

旅の写真が青葉城しかないことに気づいたのは帰って焼き上がったプリントを見てから。初日の松島や塩竃の街の写真が1枚も写っていない。考えられることはただ一つ、レンズのキャップをしたままでシャッターを押していたこと。家から借りていったカメラはそこのところ忖度してくれるようなシロモノではない。あんなに群れていたくせに、カモメは誰一羽教えてくれなかったじゃないかと理不尽な恨み言を呟く。


見出しのイラストは「T&S夫婦」さんの作品をお借りしました。ありがとうございます。

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