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怪我の功名?〜骨折から9ヶ月経って〜

あれだけ不運だと思った右手首骨折がきっかけとなって、ピアノの両手演奏への執着から解放されて、感謝の気持ちを持って前に進めるようになりました。昨日は、固定のために入れていたプレートを外す手術を受け、今はスッキリした気分でいます。

右手首骨折

9ヶ月前、大雪の翌朝に転倒して右手首を骨折しました。骨はズレた上に一部は砕けてしまい、医師には手術しても100%の元の状態には戻らないと言われて大ショック。左手にハンデがある私は、両手でピアノを弾くために、すべてのエネルギーを左手のリハビリに注いでいたので、右手まで骨折したことはまさに泣きっ面に蜂でした。

どん底まで落ち込む

私にはもう次の手はなく、ついにはピアノを鼻で弾くしかないのかと、どん底まで落ち込みました。雪による怪我人続出の日で、手術までの17日間を不安な気持ちで待つ間、私の身に起こったことに何の意味があるのか自問自答し続けました。自分で転倒しておきながら、身に降りかかる災難に抑えようのない怒りの気持ちも湧いてきました。

諦め=執着を手放す

人は、落ち込むところまで落ち込んでしばらく苦悩・葛藤の闇をさまようと、ある時、浮上してくるものなのですね。ふと、「ピアノはもう諦めよう」と心から思えたのです。ピアノを諦めるために骨折したのではないかとさえ思えたのです。

「あきらめ」とは「明きらめ」とも言われるように、現実を明らかに見ること、つまり、「ありのままの現実を受け容れること」です。

これ以上、起きたことに抗うのはやめようと思えた時、すべての見え方が変わったのです。

今できていることに感謝

思いの外、右手は回復し95%ぐらいまで戻っています。手術してくださった先生には感謝しかありません。もっと弾けなくなってしまうことを想像して一度はピアノを諦めたことで、今は片手だろうが何だろうが弾けることがただ嬉しく感じるのです。

左手についても、元の自分と比較してしまって、長いこと障害として受け容れられなかったのですが、頑張ってきた自分を認め、リハビリの成果に満足できるようになりました。最初は何も弾けなかったことを思うと確実に回復はしているのです。

コップに水が「もう半分しかない」と見るか「まだ半分もある」と見るか、同じ事でも視点が違うと解釈がちがってきます。そんなことは頭ではよくわかっていても、失ったものに執着してしまうと、視点を変えるのはとても難しいものです。

今回の怪我はある種の「底つき体験」だったのでしょう。私にとっては必要なことだったのかもしれません。(でも、もう2度と骨折はしたくないです(>_<))




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