『 回る 』公開に先立って、いま思うこと

【『回る』公演動画 ↓】

演劇はおわると思うのです。
あくまで私の価値観です。 で、私の価値観で補足すると「いままでの演劇」はおわると思うのです。
さらにちゃんと補足すると、私たち「中野坂上デーモンズの憂鬱」がやってきた演劇から、もう真っ先におわる。
今後の世界に「中野坂上デーモンズの憂鬱」は残ってはいけないのだと思っております。
「生」に頼りきってきました。 「生」だから許してください。 「生」でごめんなさい。 「生」でいいですか? 「生」をください。
そういうスタンスで私たちは続けてきてしまったもんだから。 だからデーモンズの「いままでの演劇」は概ねほぼ確で、この事態でおわると思います。

残すことはできると思います。
これからもこれまでの価値観の中で、そこに新しく「コロナ」という存在を念頭に置いて、その上で以前の様に演劇を作っていくことも、もちろん可能だと思っています。
でも当分は予想もつかない時間の中でもしかして数年、数十年。 マスク必須でコロナになるリスクを背負いながら、無事を祈って稽古をおこない、覚悟を決めて観劇に行く。 そんな演劇と生活。
劇場の席数もキャパシティに対して例えば半分の規模で。 そうなってくるとさらに色んな予算をもっともっと抑えなければいけない。 でもそれでもやり続けたいことって何なのかとか、本当に、色んな事を、色んな事を。

ただ、悲観的にだけそれらを思っているのではなくて、とにかくそういう事をいま、生活しながら、いっぱい考えていて、いまも書きながらまた考えて、書くことで考えさせてもらっているんですが。 不思議とこの考えている時間が私には、いま一番充実しているように感じていて。
個人的に、例えばいつかこの事態が落ち着いてきたときを思います。 いままでの様にまた演劇がしたいという想いと共に、一度これを味わってしまった以上、コロナやまた他の非常事態の隙を見る生活。 いまなら何もないからできるかも、ちょっと収まってる、、本番できるかも、、いけるできそう、、いけ!いまだやれ!みたいな感じで演劇を続けていくことはなんかムズムズしてきもちわるい。 自分の生活を捧げるみたいな顔してやってた事が、こんなに脆くて危うい事だったと知ったいまの私、私たち。 いつかこのさき忘れた顔してまた演劇を続ける神経になれんのかなって思ったりします。  あくまで「私」の価値観の話。

Youtuberが流行り始めたときわたし最初は鼻で笑ってたのに、いまは朝起きたらまず推しの新着動画チェックしちゃうし。 VOD(ビデオオンデマンド)の普及で海外ドラマなしの生活はもう考えられない絶対。他にも電子書籍や電子マネーの登場とか。
進化とは、 コロナで「個人」が「個人」の時間に押し込まれてゆく生活を予期していたかのように感じますまるで。
神のシナリオとかそんなのは思わないけど。でも、進む方向に進んでいく世界は、 時間は、 化学は、 未来は、 文化は、 人は、 生活は。 それを強く、この日々を通して感じています。 宗教っぽくなってしまったけど私は無宗教です、すいません。
でも、なくなるものはなくなるし、おわるものはおわる。 変わるものは変わるし、残るものは残るのだと、そう思います。
「演劇」が変われば面白いなと考えています。
変われず、この先ゆっくりなくなっていっても、それはそれでまたおもしろいなとも思っています。

いままでの価値観を残す演劇は、古典のような付加価値がまたつくかもしれない。 ニュースクールみたいな。
どっちへ転んでいっても、いまはたのしみだし、それを考えることが本当におもしろいです。
演劇を考えることが私にとって、その時間が、何か運動しているその事が演劇だといまは思うので、演劇が「生きてる」とか「死んでる」とかそういうのはちょっとよくわかんない。 生きるとか死ぬよりももっと広い、深いものだと思いたい。 私は無宗教です。
この先、新しいものが演劇と呼ばれるようになればおもしろいと思うし、 演劇という言葉がなくなるともっとおもしろいと思う。 はやくその言葉をはやく知りたいです。
したら私たちはその新しい言葉を「演劇」の様にまたおもしろがることができるのかどうかとか。
また、いつか振り返ったとき、懐かしい価値観で演劇を続けている人がいて、それが本当の「演劇」でも物凄く素敵だと思うし。

日々色んなことを想い、当然考え方は前に後ろに横にスライドしていくわけですが、いまのところ自分が作る演劇の動画や配信は、映像作品である映画やドラマ、Youtuberに数段かなわないと思うし、 観る立場になったとき、数多く世に出ている演劇の動画や配信をみるよりは、いまは海外ドラマや本や漫画、無限に在る「音楽」を聴くことを当然のように選んでしまう。
そして同時に。またこうやって。 過去公演の動画を配信し、 戯曲を公開して、 5月におこなう生配信の稽古をしている自分がいて。 自分の中でちょうど縦に線が引かれ、まえとうしろで真っ二つに割られているような感じがして。 なんかゾっとするしきもちわるいみたいな。
でもきもちわるいことってなんかむしろけっこうやっぱりきもちよかったりしたりしてみたいな。
だからなんかいま、私たちは「演劇」の誕生以来、私たちがいま、いちばんおもしろい所に来てるのかもしれないと思い始めて。
よくわかんないけどなんかほんと、わくわくする。 興奮してます。 興奮してる。興奮する。

またもやだけど、 このまま「演劇」が消えて無くなってもそれはそれで超おもしろい。
私はもともと映画がやりたかったけど技術も機材も知識もなくて、高校の文化祭でのわずかな経験を頼りに唯一できると思った演劇を選んだ人間ですから。だから8年間「生」以前に、「演劇だからこれ以上できません」とか「演劇だからこんなもんです」とか、「演劇なのにこんなことしてます」ってその「演劇だから」って事情に甘えに甘え続けてきましたから。
だから私のような何もない人間でも、テレビや映画やドラマみたいな「立派な」こと(私の中では)はできないけれど、でも私は私の意志で演劇を続けている。 そういう顔してちょっと偉そうにしてきましたから。 でもこれはもうほんとうに「演劇だからしょうがない」にズブズブに甘えていたからに他なりませんでした。 それ以外の何ものでもないです。 だから私にも演劇ができたんですね。 そしてだからこそ今、私には演劇ができないし、この国で自分はしょせん私は「住所不定・自称演出家の男」なんだなって思いました。 住所はあります、すいません。板橋区です。 でも生活の保証はありません。 それっていうのは私が、誰にでもできることをやってきたからに他ならないのだと、 あらためて今回つよく思いました。

でもこれからは「誰にでもできること」ですらなくなるかもしれないとおもって。 きっと演劇の動画配信も、生配信も、 私がこのまま続けいっても映像作品よりどの点においてもおもしろくならないし、 戯曲は小説にかなわない、 笑いは笑いの人たちに、 喋りも、 絵も、 もちろん歌は音楽の人たちに。 何もかも、 演劇に甘えてきた「私」にはなすすべない世界が始まります。
新しい価値観に、自分がついてゆけるのかどうかわかりません。
そしてどれくらいの人たちがこれまでの価値観をもって演劇を続けてゆくのでしょうか。
その全てが、これから起こるその全てが私はたのしみでなりません。
次に起こることは何でしょうか。 どんなことになるのでしょうか。
演劇の先に何が口を開けて待っているのか。
それを考えるのがたのしいです。 そして待っています。
何が待っているかを、私たちは、また待っている。
でもみんなでただ待ってるだけだと、 ただ緩やかに、 ただ演劇は、 ただおわってしまうので。
私たちの世代が、 私たちから始まる次の文化を、 私たちの手で、 私たちが作っていけたらそれはかなりやばいなと思って。
何かしようとしている人たちをググったりディグったりしながら、刺激が欲しいとこそこそ覗き見する毎日です。

もしかしたら何にも生まれず、演劇大爆発で全員死ぬかも知らんけど。
でも何回もほんとうに思うから何回も言うけど、 このまま演劇がおわったらそれはそれでほんとうに超おもしろいと思う。
それは私たちの世代がいま、いちばんおもしろい演劇を観ているということだと思うから。
マジキャパい。


2020.4.20 

中野坂上デーモンズの憂鬱

主宰 松森モヘー

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