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芸術と呼吸

経緯

Twitterである絵師さんが「絵を描くのは好きとか嫌いとかを超越して呼吸と同じ」と言っているのを見た。非常におこがましいながらも「私と同じだ……」と思ってしまった。私も文章なら「好きとか嫌いとか何の感情も持たずにPCに向かって書き始めてしばらくしたら時間が飛んでいて、そこには数千~数万字の文字のカタマリができていた」ということがしばしば起こる。その絵師さんはきちんと自分のポートフォリオがあってお金が発生する依頼を受けて作品を納めている方なので、一緒にするのは非常におこがましい(2回目)話ではあるが、私と一緒だ(その一点においてのみ)。

私はよく友人に「君らも文章書いてみろよ。いい趣味になるかもしれんよ」と勧めるのだが、だいたい「文章……?なんも書くこと思いつかんわあ」とか言われてやんわりと難色を示される。こういう人たちに対しては、いつも「アタマの中をそのまま出せばええやん……」と思うのである。

「イヤイヤ、ええ格好しようとすんな貴様。着てるもん全部脱ぎ捨ててマッパ(真っ裸)の自分を書けや。文章を書くこと=恥さらしみたいなもんぞ?」

文学誌『群像』をちょうど読んでいて、その冒頭で群像新人文学賞の選考委員の方々のコメントが載っていた。どれも各々の文学観が反映されたおもしろいコメントであったが、とりわけ町田康さんのモノがシンプルで好きだなと思った。

『いろんなことを気にせずに自分が面白いと感じることを書き其れがおもしろければ大吉。』

町田康, 群像2023年3月号, 第67回群像新人文学賞選考委員コメント

これなんだよな。元々は。

──呼吸とはなんぞや?①

最初の話に戻すと、「呼吸」するってのはどういうことか?
私はこう考える。

①呼吸=やっている間はそれを好きかどうかすら忘れる/そんなことにすら気が回らないほどのめり込んでいること。

だから、感情がガチの「無」になる。これはいわゆる「フロー状態」(より大衆的には「ゾーンに入った」等という)だと私は思っている。「フロー状態=呼吸」である。冒頭の絵描きの方も筆を持って一度描き始めたら周りが見えなくなるくらいの「フロー状態」に入っているのだと思う。絵を描いている間は時間の経過を忘れるんじゃないだろうか?あくまで私の予想だけど。

私がブログ(このnote)を始めたのも、「時間を忘れられるから」「つらい現実から逃避できるから」というのがきっかけだった。その中で自分が呼吸するようにできる行為は何かを考えたときに「文章」というモノがアタマに浮かびあがってきた。

別に常に筆が高速で進むというわけではない。書いているテーマによっては、ウンウン……と首を捻りながら考えることも多い。でも、その考えている時間にすら没入感がある。そんな感じ。

──呼吸とはなんぞや?②

呼吸とは何か?そのふたつめが情動に左右されないこと(擬不随意)である。

②呼吸=情動に左右されないこと(擬不随意)

呼吸しようと<意識>して行う人はきわめて少ない。意識的に息を吐いたり吸ったりすることがあるという人はいても一時的なモノに過ぎない。無意識的であるがゆえに意識的な行為とは異なり情動に左右されないだけの強度をもつ。(※正確には呼吸は不随意ではない。呼吸筋は随意筋であり、横隔膜も肋間筋も骨格筋で運動神経の支配を受け、随意的に収縮させられる随意筋である。しかし、行為そのものは不随意的であることから<擬不随意>と書いた(実際に睡眠中の呼吸などは不随意))

一方で、好き嫌いというのは完全に<意識>である。私はこの対象が好きだという<意識>、逆に嫌いだという<意識>。つまり、何が言いたいのかというと、好き嫌いをモチベーションの源泉にしている人は、対象物が好きでなくなった瞬間、モチベートされなくなる。創作なら途端に作品にウェイトが乗らなくなる。換言すると、好き嫌いでモノゴトをやっている人は弱い。<意識>に左右されてしまうからだ。呼吸が不随意的であり好き嫌いのように<意識>に支配されない「強度の高い営為」であることは先に述べたとおり。

──呼吸とはなんぞや?③

呼吸とは何か?そのみっつめ(最後)がアイデンティティである。

③呼吸=アイデンティティ

これは「呼吸=その人が最も自然にできること=その人のアイデンティティ」といえば、よりわかりやすい。呼吸より自然にできることとなると、それはもう完全な不随意運動になるから、「(心臓の)鼓動」とかになるだろうか?「私は〇〇を鼓動のようにできます」という人がいたら、それは相当熟達したモノであると期待できる。(相当ヤバいやつだろう)

鼓動の話は置いておいて、ある人ができる行為のなかで最も負荷のかからないモノのひとつが呼吸である。自然と出るモノにほど<その人らしさ>が乗る。<意識>というのは良いように出ても悪いように出ても<その人らしさ>からは遠ざかる。

冒頭で述べた、友達との話でも、ええ格好しようとすると自分のことを大きく見せるような表現が増えてしまう。これは私にも言えることだが、自分がいかに賢いか、偉くて真面目な人間か、どうやって高尚なことを言おうか、みたいな文章を書くうえで不純物といって差し支えないことを考えた結果、<私>という人間の本質からは離れた文章ができあがってしまう、なんてことが多々ある。

逆に自分を不必要に悪く見せようとする(露悪的な)のも<その人らしさ>を表現するという観点からみれば、あまり良いことではない。理由は、上記の逆のような現象が起こるからなので、容易に想像できよう。要は、良かろうが悪かろうが「キャラを作ってしまう」という行為が<その人らしさ>から遠ざかる行為であるということが言いたい。

まあ、もうひとつメタな視点から見るのであれば、その<キャラの作り方>にも<その人らしさ>が出るので、善人ぶっているのであれば「どんな善人ぶり方」をしているのか?悪人ぶっているのであれば「どんな悪人ぶり方」をしているのか?というところまで見ると、「善人ぶり方」にも(「悪人ぶり方」にも)ひとつの共通した筋の通った<人格>が浮かび上がってくる。これは、ひとつの文章(ないしは絵や映像などの創作物)だけではなく、複数の文章(ないしはその他の創作物)を並べてみて、比べることによってはじめて見えてくるモノだと思う。論文のメタ分析と似ている。

おもしろい話を父から聞いた。父が30代の頃に書いた文章が探し物をしていたら出てきたので、それを読んでみたところ、「内容はキレキレだが、気取った文章だな」とのこと。60代となった今は若い頃のような尖り(気取りも含む)が取れて、丸い文章になったそうだ。父曰く、「年齢とともに性格のキツさというか、他者への厳しさみたいなモノが取れた(それを世間は衰えともいう)のが文章にも反映されているんじゃないか?」

気取りというのも、<意識>で自分を着飾ることを意味するから<呼吸>からは遠い。必然、<その人らしさ>からは遠ざかるはずである。しかし、「<その人らしさ>からの遠ざかり方の傾向」を並べてみた結果、<その人らしさ>が改めて見えてくるという面白い事例である。

こういうことは、著名な作家でも起こり得る。自分の好きな作家の本を並べてみて読み比べてみる。そうしたら、ほぼ100%のなんらかのクセのようなモノが見えてくるだろう。呼吸は不随意にきわめて近い運動であるが、随意的な部分も含んでいる。この擬不随意的な運動の随意的な成分(ないしは擬え方)のみを抜き出して比較することで<その人らしさ>が見えてくるというおもしろさがある。呼吸にも色がついていたり、息づかいがある。それが<その人らしさ>である。

呼吸というのは、そこに<意識>が乗らない擬不随意な(自然に近い)運動であるから、<その人らしさ>が出やすい、すなわち呼吸=アイデンティティといえる。そして、<意識>が乗らないこと(自然でいること)が創作において、いかに大事であるかを述べた。

しかし一方で、呼吸は完全に不随意ではない。実はいくらかの<意識>が乗っており、それが表現を<その人らしさ>から遠ざけてしまうことは多い。
ここでさらにメタ的に見ると、<意識>の乗り方にも作者それぞれの<その人らしさ>が出る。作者の呼吸には色がついており、息づかいがある。すなわち、その人の人生の変遷・環境の変化そのものが呼吸の色や息づかいに現れたとき、それはアイデンティティとして鑑賞者に認識される。

芸術に対する評価のしかた

だいたいの芸術に対する評価というのは、<その人らしさ>がいろんな視点から覗かれ、見出されたそれに評価者各々の物差しをあてた結果で決まる。

何かに自分を擬えるにしても<わざと>やるのでは<その人らしさ>は雲の後ろに隠れてしまう。とりあえず、自然のまま、為すがままやってみて、その結果、擬えて<しまった>というくらいがちょうどいいだろう。
最も評価される芸術は、もっとも<その人らしさ>が出ている芸術であると平凡に答えるが、それは擬えることすらも自然にやってのけてしまった場合に立ち現れる、その人の立体的な像であり、決して平面的な物ではない。


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