休んで見えてきたこと

5月の上旬に怪我で1ヶ月半休んでいた会社に復職した。怪我の後遺症も少なくなり、体調も落ち着いてきたし、もう社会と距離を取るのが嫌だったのだと思う。でも実際に戻ってみたらなんだか想像以上に周りの流れが早くて置いてけぼりな感じがしたり、望んでいるのかわからない忙しさにてんてこ舞いな人に囲まれている感じがした。それは好きなことでしか働けない私にはとても違和感のある状態で、息苦しくなったので、やっぱりもう少し体力がついて、体も心も万全な状態になるまで休んでみようと思い、会社に休職願いを出して7月中旬まで休むことにした。

休んでみて思ったことが二つ。
1、そもそも休むってなんだろう
2、仕事が自分の中のアイデンティティとして大きくなりすぎていた

これまでの自分が実践してきた休むというのは、会社や社会が決めた休みの日と言われる日に自分の好きなことをすることだった。今までにあった好きなことは旅行をするとか、おいしいご飯を食べるとか。
でも、実際に毎日が休みです。仕事はなしですからね。の状態になると、大好きだった旅行にも大好きだった食事にもほとんど出かけなくなってしまった。

2にも書いた仕事が自分の中のアイデンティティとして大きかったからこそ、それを失うと自分が自分でいられなくなるような、めまいでクラクラして立っていられない感覚だった。成果も何も出せないことが悲しかった。大声で泣き叫んだりもしたし、とにかく悔しいという感情に支配されたりもした。こんなにたくさんの感情が自分の中から溢れたことは初めてでとても驚いた。

でも、数週間も経つと、それも受け入れられるようになった。逆に私には働くことが生き甲斐だし、夢中になれる大きな軸の一つと認識することができた。幸せなことじゃないか。

そんな時に、元気になったらまた一緒に働こうよ、一緒に何か企画しようよなど声をかけてくれる人が何人もいたり、理解してくれる人がいる場所があることが本当に心の底から嬉しかったし、自分の存在価値を感じる瞬間だった。

休むというのは自分と向き合い、自分を慈しむ時間なのかもしれない。
今まで、そんな時間を意識して来ることはなかったけど、今は毎朝明治神宮を散歩したり、毎晩好きな入浴剤を入れて風呂に入ってのんびりしたり、寝る前にお香をたいて心を休めたりする時間は本当に安らぐ。SNSもやめてみたので人の慶弔やたわいもない話に心を揺さぶられることもない日々。逆にSNSの価値にも気づけた。発信することで人と繋がり生きてきたことを改めて実感した。人と会うことの力もこの1ヶ月で本当に実感した。オンラインではなく、実際に対面してこそ得られるものは果てしなく大きい。

私の前世は巫女なのでこれまで自分より人を気遣って人のために生きてきてきたという認識が大きい。それは時として仕事や人間関係において優位に働くこともあったけど、その力をもう少しわがままに自分に向けて使ってみてもいいのかもしれない。休んでみて、そんな風に考えることもできるようになった。

1ヶ月も発信していないと根っからのPR(パブリックリレーション)マン(ということにも今回気づけた)の私は喉が乾いて仕方がない。たくさん発信してフィードバックがたくさん欲しい。ゴクゴク水を飲みたい。人と社会と繋がっていたいという思いが自然と湧き上がってきた。

なんだか、いい感じかも。

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