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好きをたくさん語ってもいいと思う

こんにちは。でんこです。

先日から、小沢健二を語る人がいて嬉しいなぁ…なんて思っています。

ちょっと前なら考えられなかった現象で
ドライブ中の音楽はオザケンにしとる、とか言ったらもう『えっ?』みたいな反応をされていました。
車に人を乗せるときは、
『車の中では小沢健二だけどいい?』
なんて言うほど、まぁ気を使っていました。
そう言われても、誰も『小沢健二はちょっと…』なんて言えませんよね。。

今は、病気の影響もあって自身で運転する事が出来なくなりましたが…
それまでは、ずっと車の中では小沢健二を聴いていました。

ざっと10年以上!変える事なく飽きずに同じものを聴いていました。

主に、『LIFE』と『刹那』というアルバムをレンタルで借りて1枚で収まるように選んでCD-Rに入れたものを流していました。いわばマイリストですね。

そもそも、なぜ、私が小沢健二を好きになり、聴くようになったのか。

ルーツは中二で聴いたこの曲でした。

『恋とマシンガン』

知らない人は聴いてみて欲しいのだが、
この曲が発表されたのが1990年5月5日というから今から29年半前なんだよ!ちょっとマジかよ!
初めてこの音楽に触れた時の衝撃を越える音楽に、私はこれから先に出会う事ができるのだろうか?
いや、未だかつて出会えていないんじゃないだろうか

この曲は、ドラマ『予備校ブギ』の主題歌として発表されたものであり、私もドラマを見ることで知った曲です。小沢健二や小山田圭吾はもちろんのこと、フリッパーズギターの事も全く知らない中学生だけど、この曲のイントロに脳天を撃ち抜かれてしまいました。

ドラマが終わり、私はフリッパーズギターに走るのかと思いきや、そうではなかったんですよね。
高校生になったら聴かなくなっていたんです。
今のように情報もなく、田舎暮らしの私の情報源といえばテレビだったんです。

それでも、恋とマシンガンの衝撃を忘れられずにいたんです。ずっと心にしまいこんだまま過ごしていました。

そして、時は1995年-。

高校卒業を目前に控えた1月17日、あの阪神淡路大震災が発生しました。
その日までの私は短大生活と一人暮らしへの楽しみしかありませんでした。毎日ウキウキしながら過ごしていたんです。
あの日、あの時間から不安になってきたんです。
刻一刻と旅立ちの日を待っていたら、次は地下鉄サリン事件。。
本当に大丈夫なのか、この先、世の中がどうなってしまうんだろうか。ノストラダムスの予言もあるし。
先が全く見えない状況の中、私の一人暮らしがスタートしました。

そんな時代の中での音楽の力は絶大なもので、毎日を暗いニュースに触れている中で色んな不安な気持ちも音楽を聴いている時は忘れていました。
そんな時代に颯爽と、飄飄と現れた人こそ

『小沢健二』。

元々、小沢健二は短大で仲良くなった友達が好きだと話していたんです。最初はうんうん!って聞いていたんですが、まぁ、この頃は小沢健二ってよくテレビに出てきたんです。だから、嫌でも見たくなくても目に入る存在だったんです。(褒めてる)

最初は、オザケンの曲の良さが分からなかった。
正直、何を言っているのか分からなかった。
当時はどちらかというとバンド系やビーイン系が好きだった私からしたら異色な存在だったんです。
見た目もヒョロっとしていて、ナヨナヨとした感じもあるし、彼女のことを『仔猫ちゃん♡』なんて言ってたし笑。

でも、見ているだけでハッピーになれるし楽しい気持ちになれる。テレビに登場するオザケンを気がついたら追うようになっていました。
最新の小沢健二のアルバムってなんだろう…
そう思って、近くのレンタルショップに行き、小沢健二のコーナーに行ったんです。

『LIFE』

これが、小沢健二の一番新しいアルバムかぁ。。

紛れもなく、私が初めて『LIFE』を手に取った瞬間でした。
聴きながら一つの記憶とともに、

恋とマシンガン を聴きたい!!

当時は、フリッパーズギターが歌っているという情報はテレビから知っていましたが、
小沢健二を知らなかったんです。
5年の時を経て小沢健二を知り、恋とマシンガンの衝撃を思い出した私は、再びレンタルショップへ行き、
今度は恋とマシンガンを聴いたものです。

今までは点と点でしかなかったものが、線となった時の感覚は言葉に表す事ができないものでした。

あの、恋とマシンガンを作って歌っていた人なんだー

あの頃のオザケンの人気は一言で言うと、本当に凄かった。
暗い世の中で、颯爽としていて飄飄としていて、王子様で、キラキラしていて
オザケンを見るだけで気持ちが明るくなれたし、楽しくなれたし。今なら手を合わせて拝んでしまうんだう、そんな存在でした。
それは、当時、運良く行けたライブでもそう。

小沢健二@大阪城ホール1996/03/24

セトリ↑

この時、会場に入り、席に着くと
一つ一つの座席に、赤鼻が置いてあったんです。
どの曲だったかは覚えていないけど、ある曲でお客さん全員が赤鼻を着ける場面があった。
赤鼻を着けて歌ったか、踊ったかは覚えていないんだけど、とにかく楽しかったのは覚えている。
書いた後で思い出したんだけど、あの赤鼻は『サル』だったはず!!

アンコールで歌われたドアノックでは、『ドアノックダンス』をやったものです。

ドアをノックするのは誰だ?LIVE AT BUDOUKAN

(雰囲気だけでも)

みんなで楽しんで、歌って踊って、このままこの時間が終わらなければいいのに…なんて思ったもの。

それからしばらくして、小沢健二はメディアから姿を消しました。あんなに出ていたのに、一切。

それでも、車の中で聴くのは小沢健二でした。

他の好きなアーティストを流すことはあったけど、でも、やっぱり小沢健二に戻ってしまっていました。
小沢健二に戻ってからは、車の中ではずっと小沢健二でした。
仕事に行く時、帰る時、お出かけする時、
傍らにはずっと小沢健二がいました。
かれこれ、10年以上。

今はApple Musicとかあるけど、その頃はなかった。
極論、私は小沢健二しか聴いていなかったんじゃないのか?という錯覚をおかしてもおかしくないくらい。

メディアから姿を消した小沢健二が、テレビに戻ってきた日。 『笑っていいとも!』が最終回に向けて走っていた時、テレフォンのゲストが小沢健二だと発表された。
当時は仕事が14時からということもあり、いいともを見てから家を出ても間に合う状況だった。
その日はいいともを見るのは正座。なんせ、久々にお目にかかるオザケンだった。あの時の緊張感は半端ないものだった。メディアに一切登場しなくなった小沢健二が、どのようになっているのか知る由もなかったから。私の中の小沢健二は、あの時のまま。私もそれなりに年齢を重ねていたけど、小沢健二も当然ながら年齢を重ねている。あのキラキラした小沢健二が結婚してお子さんが産まれた、ということは何かで知ってはいた。まぁ、そんな事はどうでもいい。
オザケンへの止まっていた時計の針が動き出そうとした瞬間でした。

小沢健二『笑っていいとも!オザケン×タモリ』16年ぶりテレビ出演

キャー!って言いたい気持ちと、この時を噛みしめたい気持ちが入り混じった状態でこの放送を見ていました。あー、オザケンだ。いい感じに年齢を重ねたオザケンだ。。

そして時は2019年。

今は、堂々と『オザケンが好き!』と言っても誰からも後ろ指をさされることもないし、
今さらオザケン?とか、小沢健二って?とかいう風潮もない。
こそこそと、それでも車の中では大音量でオザケンをこっそり聴く時代でもない。
ひたすら、オザケンを聴いていた頃は、もう小沢健二は表舞台には戻って来ないんじゃないか?という事も思っていた。でも、オザケンは颯爽と飄飄と戻ってきた。

オザケンの音楽は何処がいいのか、何が凄いのか、私には分からない。分かるのは、オザケンの音楽は聴く文学だなぁ。ってこと。オザケンの曲には世界観があって、音楽を聴くと歌詩の内容が目に浮かぶ。
それに、オザケンって見るだけでhappyな気持ちになれる。1995年の暗い世の中を明るくしてくれたのは小沢健二であり、オザケンだった。楽しい気持ちになりたい!と思ってオザケンを聴いていた。
そして、オザケンを通して都会を見ていた。都会って、東京って、こういう所なんだろうな…っていうのを、オザケンを通して見ていた。んだろうな、と今になって思うのです。

途中から何を言っているのか分からなくなるくらい、このnoteを書きながら熱くなってしまいました。

あの時、小沢健二がいなかったら日本は…

YouTube@わいざんTV

2019年、来年はオリンピックyearである2020年
小沢健二のNew albumをApple Musicで聴きながら
彗星を聴きながら、あの頃の事を思い出し感慨深いものを感じながらこのnoteを書きました。


#小沢健二 #オザケン #好き #音楽  

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