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議論のギロン①

前回の記事で〝議論〟について話題になったので、しばらく〝議論〟についてお話したいと思います。

本日はその導入編です。

近年、日本人は議論が下手、若しくは出来ないなどと話題になっています。

テレビのドキュメンタリー番組などで欧米(と言っても一部でしょうが…)との差を見ると、確かにそう感じます。

多くの論者が、学校教育における欧米と日本を比較し、日本の教育に〝議論〟を取り入れるべきだと論じていますが、小生の個人的な意見としては、もっと複雑で広く、別の所に深い問題があると思っています。

小生85歳。

抑圧された教育を受けてきた者です。

今でも初代の神武天皇から昭和天皇まで124代の天皇陛下をそらで言えます。

ちょっと話を盛りました。結構忘れています…(笑)

終戦間際の軍国主義教育は、子供に議論の余地を与えない、まさにその典型的な教育制度でしたが、実際は今と変わらず良く議論し合っていました。

多くの本では、当時の教育を受けている子供らを個性が抑圧されているように描いていますが、大きな間違いです。

戦前から世界で最も教育水準が高かった日本人は、たった10年かそこらで大きく変わるほど馬鹿ではありませんでした。

明治維新という激動の時代を生きてきた、その子供、その孫達は表面ばかりの軍国主義教育の裏で、今より自由に議論をしていたのです。

ただ、得られる情報に信憑性がなかった(今でもそういう新聞社がありますが…)ため、騙されている者が多くいたことは事実です。

また、外に向けて議論をすることは死の恐怖に繋がっていました。

まあ、当時は今のような通信手段がありませんでしたから、一般の市民が外に向けて議論する機会など元々ありませんでしたけれど…

日中戦争で傷を負って帰った父も、新聞に書かれたあからさまな嘘を見抜き、戦争に対する個人の意見を持っていました。

ちょっと脱線して、話が見えなくなりましたね…

要約すると、日本人はいつの時代も己の意見を持ち、他者と〝自由〟に〝議論〟を交わしてきたのです。

教育の影響なんて微々たるもので、ほとんど関係ないんです。

日本人に流れる遺伝子の記憶は、そんなつまらない、浅はかなものではない。

団塊世代の知識人には、日本に批判的な人がかなりいて色々迷惑をかけていますが、嫌なら出て行けです。

きっとその辺にしか居場所はありませんよね(笑)


さて、導入はここまでにして・・・

次回から〝議論〟の機会が減っている(ように感じる)のは何故か考えてみたいと思います。