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フローター  第1話

《あらすじ》
 
大手製薬メーカーの研究員、平林誠は脂肪を燃焼させる薬を開発中、偶然にも空を飛べる薬「フロート」を発明する。フロートは爆発的な大ヒット商品となり、「フローター」と呼ばれる人々が空に溢れる一大ブームを巻き起こした。
 しかし、誠は恐ろしい事実に気付く。フロートには飲み続けると身体に特殊なガスが溜まり、強風が吹き付けると身体が飛ばされてしまうという副作用があったのだ。一刻も早くこの事実を公表しなければ! そう思った誠は副作用の事実の公表と商品の回収を訴える。しかし、そんな誠を貶めようとするものが現れる。
 


この小説の主題歌『フローター』(作詞作曲:ダイ☆キチ)も
UPしています☝ 
ぜひ小説と合わせてお楽しみください! 



【フロート】――20XX年に日本で開発された空を飛べる薬。
発売後大ブームを巻き起こし、この薬にはまった人々はフローターと呼ばれた……。


 久々に街へ出ると、人々が空を飛んでいた。
あー、またか……。
そうつぶやいて街を歩いた。
 丸の内上空では、ランチタイムのOLたちが空中でスターバックスのコーヒーを飲みながらお喋りをし、芝公園上空では女子高生たちが東京タワーに捕まりながら「だるまさんが転んだ」をやっていて、その下に彼女たちのパンチラを狙うカメラ小僧たちが群がっているのは言うまでもない。    
 昔アムラーと呼ばれるコギャルたちが渋谷の街を席巻したように、最近空にプカプカと浮かぶフローターと呼ばれる奴らがやたらと増殖していた。
 はぁー、まったくどいつもこいつも……。
 世の中がこんなふうになったのは全てあの薬の発明のせいだった。全ては4年前、俺があの研究室で発明したあの薬がきっかけだったのだ……。

  

               4年前
 
 やばい、まずい……。
 何とか目の前で起きているこの事実を隠蔽しないと――平林誠がまず初めに考えたのはそのことだった。大手製薬メーカー三橋製薬の研究員である誠がその朝いつものように国分寺にある研究室の扉を開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
浮いているのである。マウスが……。

 まるで無重力空間にいる宇宙飛行士のように数十匹のマウスが研究室の空中をフワフワと漂っていた。何なんだこれは……?
「誠先輩……」足元から声が聞こえた。机の横に研究室の後輩の井上が寝転がっていた。腰を抜かしたのだろうか、床にへばりついている。

「どうした、お前!」
「朝来たらケージの中のマウスが宙にプカプカ浮いてたんです。それで思わずびっくりして転んだ拍子にケージをひっくり返してしまって……」
 井上の横には空になったケージが転がっていた。

「でも……何で浮かんでんだよ? おい、これ一体何なんだよ……」
「分かりません。昨日もいつも通りの配分で薬を飲ませたはずなんですけど……」泣きそうな声で井上が言った。

 ここ最近、誠たちの研究チームが取り組んでいたのは人間の身体の脂肪を燃焼させる薬の開発だった。3年前、政府は膨らみ続ける社会保障費を何とかして抑えようと国民にメタボ検診を義務付けた。そして政府はメタボリック対策の切り札として体内の脂肪を劇的に燃焼させる薬の開発を大学や製薬会社などの研究機関に依頼していたのである。
 その開発段階の薬を定期的にマウスに飲ませていたのだが……。

 落ち着け、思い出すんだ、昨日の事を。誠は昨日研究室で自分がやったことを思い出してみた。しかし昨日に限って特別なことをした記憶はない。やばい。俺はとんでもないものを作ってしまったのではないか? 責任問題、叱責、始末書、減俸、クビ……そんなネガティブな言葉が連鎖的に頭の中に浮かび、何とも言えないイヤーな不安感が足元から上ってきた。

 もしもこのマウスたちが窓の外に飛んで行って交配しそのDNAが拡散し、日本中に空飛ぶマウスがあふれてしまったら……。まずい。この事例は本社に報告すべきだろうか? 誠は考えた。昔ワシントンは桜の木を折った時、お父さんに正直に告白して逆に褒められたが、薬を飲ませたマウスが浮いていましたと正直に本社に告白して褒められることはあるだろうか……? いや、ないだろう。ならば、ならばこの事実を隠蔽しなきゃならない。誠はそう決めた。最初の目撃者が井上で良かった。井上は研究チームの中でも誠と一番仲の良い後輩だった。誠は井上が実は大の熟女好きで昼休みに社員食堂で働いているパートのおばさんをこっそりデートに誘っていたのを知っていたし、井上も誠が巨乳好きで巨乳アイドルの画像を研究所のパソコンの「脳細胞ビタミンα」というフォルダの中に秘かに保存している事を知っていた。お互い秘密を共有できる仲だ。井上ならこの事実の隠蔽に力を貸してくれるはずだ。

「とりあえずマウスをケージの中に入れよう」
 そう言って誠は手袋をはめて一匹ずつマウスを捕まえようとしたが、井上はまだ床にへばりついたままだ。
「先輩すいません。ちょっと腰が抜けちゃったみたいで」井上が情けない顔で言った。
「しょうがない、じゃあ俺一人でやるから病院行ってこいよ、立てるか?」
「すいません……イテッ、イタタタタッ……」
 誠は床にへばりついてる井上を抱き起こした。

「いいか、このことは研究室の誰にも言っちゃダメだぞ、このマウスはとりあえず原因が分かるまで俺の自宅に隠しておく。こんなもんが本社に見つかった日には――」
「先輩……それが……」井上が泣きそうな顔をしている。
「僕の前に……既に目撃者が……」

 井上が指差した方向――テーブルの奥に、掃除のおばさんが腰を抜かして倒れていた。


                 三橋


「どうすりゃいいんだ……?」
 夜明け前の駒沢公園をはぁはぁ言いながら三橋製薬社長・三橋裕也は一人走っていた。
 どうすりゃいいんだ……?
 それがここ最近の三橋の口癖だった。

42歳の時に病気で一線を退いた父親から社長の座を受け継いでから5年。経営は今一つの状態が続いていた。大手製薬会社のトップとして三橋がいつも考えていたのは、世の中の為になる薬を開発して社会に貢献する――そんなことではなく、「あいつには負けたくない」という思いだけだった。「あいつ」とは大学時代の同級生で今はスマートフォン向けのゲーム事業で急成長を成し遂げたベンチャー企業『EOB』のCEO・千葉一真のことだった。

千葉は時代の寵児として日経新聞に特集記事が載り、『AERA』の表紙を飾り、TBSの『情熱大陸』に出演するなどして世間からもてはやされていた。
 三橋にとって忘れられない夜がある。三ケ月前、六本木ヒルズで開かれたパーティーは「若い経営者たちが集いこれからのビジネスに関して情報交換する場」という名目で開催されたのだが、実態はテレビ局の女子アナやモデル、グラビアアイドルを招待した合コンだった。このパーティーで最も女の子たちの注目を集めたのが千葉だった。

千葉はSNSの将来についてやスポーツ、政治、経済の話まで、どんな話題でも女の子たちに分かりやすく話して聞かせるだけでなく、時折冗談や下ネタなども混ぜ、終始パーティーの中心に居た。何より三橋が許せなかったのは三橋が大ファンである台場テレビの「赤パン」こと人気女子アナの赤西瞳がずっと千葉の隣に座っていたことである。一度三橋も負けじと働き方改革とTPPの弊害について前の日に「日刊ゲンダイ」で読んだ内容をそのまま語ってみたのだが、「いや、それは違う」と千葉に間違いを指摘され、それに反論する知識を持たない三橋にその後出来たことといえば、まるでバラエティ番組のひな壇芸人のように、千葉の話に大きく相槌を打つことと大げさに手を叩いて笑うことだけだった。

ちくしょー、ルックスなら俺の方がいいのに……そう思いながら三橋は負けを確信していた。千葉には才能がある。俺の10倍以上政治経済に関する知識がある。そして何より一代で成功を成し遂げた男だけが持つ独特のセクシーさがある。そこにメスは惹き寄せられるのだろう。対して自分は――金はあるが親の跡を継いだだけの才能の無いボンボンくらいにしか見られていない。

三橋は自分の中でこの夜の事を「六本木ヒルズの悲劇」と呼んでいた。しかも三橋の落ち込みに拍車をかけたのはその一月後「赤パン」のお泊りデートが写真週刊誌に報じられたことだった。相手は千葉だった。初めて社長室でその記事を見た時、三橋はPKを外した時のクリスティア―ノ・ロナウドのように膝から崩れ落ちた。

あいつに負けたくない。その日から三橋は腕立て伏せを始めた。次の週からはジョギングも始めた。腕立て伏せとジョギングが経営者として千葉に勝つこととどういう関係があるかのか? と言われれば答えは無かった。しかし三橋は毎日毎日走った。駒沢公園を息を切らし走った。そして走りながら三橋は考えた。あいつに勝つにはどうしたらいいのか? 勝つために必要なことは何か? もっと腕立ての回数を増やして大胸筋を鍛えることか……いやちょっと違う気がする。やっぱり仕事で結果を残さない限り「赤パン」は俺の事を尊敬してはくれないだろう。大胸筋だけではお泊りデートも無理だろう。

じゃあ、どうすりゃいいんだ……?

はぁはぁはぁはぁ……どうすりゃいいんだ……? はぁはぁはぁはぁ……どうすりゃいいんだ……? 心の中で叫びながら今日も三橋は駒沢公園を走っていた。

公演の中央広場に出る。目の前にオリンピック記念塔へと続く階段が見える。この階段を駆け上がって映画ロッキーのようにガッツポーズをするのが三橋の毎朝の日課だった。

はぁはぁはぁはぁ……階段を駆け上がる。どうすりゃいいんだ……? どうすりゃいいんだ……? オリンピック記念塔が見えてきた。

その時だった。
突然頭の中が空っぽになった。

頭の中に巨大な地下シェルターのような空洞が出来た。そしてそこへ「宅急便でーす」とクロネコヤマトのお兄さんが一つのアイデアが届けに来たような感覚に三橋は襲われた。

そうだ! ヒット商品だ!

階段を駆け上がった三橋は心の中で叫んでいた。
何か世間をあっと言わせるような、一大ブームを起こすようなヒット商品を世に送り出せば世間は俺に注目する。会社を再建させた若手社長としてもしかしたら千葉と同じように『情熱大陸』に出演出来るかもしれない。そうすれば「赤パン」だって俺の事を見直すはずだ。

夜が明けてきた。駒沢公園中央広場が朝焼けに染まりだす。
そうだヒット商品だ。それしかない! ヒット商品で「赤パン」とお泊りデートだ! 
心の中でそう叫びながら目の前にそびえたつオリンピック記念塔をめがけて三橋はダッシュした。
 


             グラドッパッ
 

「グラドッパッ」――これは一体どんな化学変化を意味する言葉なのだろう……? 
 顕微鏡を覗きながら「グラドッパッ、グラドッパッ……」と呪文のように唱える誠先輩の姿を横目で見ながら井上は考えていた。

ここ最近の誠先輩の研究に没頭する姿は凄まじいものがある。研究室に布団を持ち込んで連日泊まり込み、今朝も7時に井上が出勤して来た時にはすでに顕微鏡を覗いていた。警備のおじさんによると毎晩深夜2時3時まで研究室の明かりが付いているらしい。よく一流のアスリートにはゾーンと呼ばれる究極の集中力を発揮する瞬間があると言うが、今の誠先輩はまさに研究者としてゾーンに入っているのかもしれない。まさかとは思うが、もしかしたらこの人はノーベル賞をもらうような天才なのではないだろうか……? そんなことを思わせるぐらいこのところの先輩の研究への没頭ぶりは凄まじかった。

しかし、うちの会社は一体何を考えているのだろう? マウスが浮遊するという事件が起こって以来、ここ数日の展開は予想外のものだった。

 あの日、誠と井上はマウスが空中を浮遊するという不可思議な事件をとりあえず隠蔽することに決めた。ぎっくり腰になった井上が病院に行って痛み止めの注射を打って帰って来るまでの間に誠先輩は浮遊していた数十匹のマウスを一匹ずつ捕まえてケージに入れ、それを研究室の一番奥に持って行き、周りを段ボールの箱で囲った。治療から戻ってきた井上もそれを見て、これで今日一日はバレないだろうから後はあのマウスを誠先輩の家に運んでしまえば大丈夫だと思った。気がかりなのはあの第一発見者の掃除のおばさんのことだったが、一緒に病院に行った際、今日見たことは絶対に内緒にしておいてくれと診察代を払ってあげたのにプラスして口止め料として一万円を渡しておいたのでおそらく大丈夫だろう。そう考えたのが甘かった。

 あの日研究室で腰を抜かしていた清掃作業員、熊谷トメさんは、病院で治療を終えたあと「今日はごめんなさい。明日も休むから宜しくね」という電話を同僚の白石ハルさんにした際に「実はここだけの話なんだけどね……」とその朝研究室で見たこと一切合切をハルさんに話してしまい、そのハルさんは電話中相手から聞いた話を大きな声で繰り返す癖があったので、その時ハルさんと一緒に清掃人控室に居た三人の清掃作業員のおばさんたち――ウメさん・キミさん・ミヨさん――みんなの知るところとなってしまい、お喋り好きなウメさん・キミさん・ミヨさんたちの口コミの威力は凄まじく、オフィスで、トイレで、給湯室で……至る所でウメさん・キミさん・ミヨさんは噂を広め、翌日には研究所のみんなが知るところとなってしまい、誠の研究室には見学者が頻繁に訪れるようになり、その二日後には噂を聞きつけた本社から三橋社長をはじめとする幹部連中が揃って見学に来る大事態になってしまった。

 ところが……である。ここから奇妙な展開が始まった。

マウスの身体を浮遊させるというへんてこな薬を作ってしまったことに対し、そしてその事実を隠ぺいしようとしたことに対し、当然のことながら厳しい叱責と処分を覚悟していた誠と井上だったが、社長の三橋から発せられた指令は意外なものだった。

「この研究を続けろ」

 社長はそう言ったのだ。社長が言うにはマウスが浮くなら人間も浮くはずだ。ヒトが空を飛べる薬を作れと言うのだ。

 その場にいた誰もが「こいつ何言ってんだ?」と思ったはずだ。まさかそんな薬出来る訳ないだろう。井上も思った。しかし社長らが帰った後、「そんなバカげた薬の研究なんてやってられませんよ、ねー先輩」と井上が話しかけた時にはもうすでに誠先輩は試験管を取り出し、パソコンにデータを打ちこみ、研究に没頭していた。

 本当にやるつもりなのだろうかこの人は……。冗談だろ……?

最初はそう思ったが冗談ではなかった。このバカバカしい指令に対し誠先輩は、見ていてバカバカしくなるほどの熱中ぶりをみせていた。井上は小学生の時エジソンやアインシュタイン、レオナルド・ダ・ヴィンチやアルキメデスの伝記を読んだ時のことを思い出した。バカと天才は紙一重。偉大な発明家は周りから変人と呼ばれていたケースが多い。

今、目の前で「グラドッパッ、グラドッパッ……」と訳の分からない呪文をつぶやいているこの三十半ばのおじさんは普通の人から見ればちょっと危ない変人に見えるだろう。女子高生なら絶対に「キモい」と言うはずだ。しかも何日も風呂に入っていないためちょっと臭い。しかし同じ研究者として井上は感じていた。今の誠先輩には「キモい」や「臭い」を超越した人間の凄味があることを。

もしかしたらこの人は本当に発明してしまうんじゃなかろうか……ヒトが空を飛べる薬を……。いや、まさか……でも、今のこの人なら……。井上はそんな畏怖の念を抱きながら誠を見つめていた。


 
グラドッパッ、グラドッパッ……。

自分がそんな独り言を口にしているとは気付かずに、ましてや後輩の井上から「キモい」、「臭い」などと思われているとは全く気付かずに、誠は化学のオバケか何かにとり憑かれたように「ヒトが空を飛べる薬」の開発に取り組んでいた。

こんなに必死で何かに取り組んだのはいつ以来だろう? 中学の時、化学部で毎日新しい実験を体験した時以来かもしれない。あの頃は本気で将来ノーベル賞を取ってやろうと思っていた。そうだあの時以来だ。あの時は本当に純粋な好奇心で実験に取り組んでいた。けど今はちょっと違う。好奇心だけではここまで熱くなれない。

今、大人になった誠をこれほどまでに熱く動かしていたのは、マウスが宙に浮くという不思議な現象の謎を解明せずにはいられない、という研究者としての本能ではなく、人を幸せにする薬を開発しなくてはならない、という化学者としての使命感でもなく、あの日社長が誠に言った「この薬を発明出来たら好きなグラビアアイドルと一発やらせてやる!」という一言によるものだった。

 10代の頃から勉強と研究ばかりで女性経験に乏しい誠にとって若くて可愛い女の子と一発出来るというのは夢のようなことだ。確かに最近はイメクラやデリヘルなど便利な性風俗はあるし、誠もそういう店をちょくちょく利用していたが、グラビアアイドルのような可愛い女の子と出会ったことは一度もなかった。

この間立川のデリヘルに電話した時などは「北川景子のようなスリムタイプと深田恭子のようなぽっちゃり系とどちらがタイプですか?」と聞かれたから「ふかきょんみたいなぽっちゃり系で」と応えたら、やって来たのは深田恭子とは似ても似つかない元横綱武蔵丸のようなデブで、扉を開けて対面した瞬間誠は膝から崩れ落ちた。もう二度とあんな思いはしたくない。

 あの日なぜマウスは宙に浮いたのか……? 

グラビアアイドルと一発やるために、誠はその謎を解くことに全ての脳細胞を集中させた。誠はまず宙に浮いたマウスと浮かなかったマウスとの違いを細かく調べ上げ、あの日の温度、湿度、投入した薬の量、マウスの筋肉量、脂肪の量……など、あらゆるデータを踏まえそこから数千の仮説を立ててそれを一つずつ検証していった。パソコンの画面に向かってずっと同じ姿勢でいるせいか身体がカチコチになっている。毎日2、3時間しか寝ていない日がもう二週間以上続いているからさすがに疲れも溜まってきた。しかしまだまだだ。この程度で弱音を吐く訳にはいかない。この苦労を乗り越えればパラダイスが待っているのだ。そう、グラビアアイドルと一発出来るのだ!
そう考えると不思議なほど力が漲ってきた。脳細胞が勃起している――そんな感覚だ。

グラビアアイドルと一発出来る! グラビアアイドルと一発出来る! そう自分に言い聞かせながら誠は研究にのめり込んだ。グラドルと一発、グラドルと一発……グラドルイッパツ……グラドッパッ、グラドッパッ……。
今、誠はまさしくゾーンに入っていた。


 
         ミッションインポッシブル
 

 その夜、お台場の屋外イベント会場は異様な熱気を放っていた。

 三橋製薬が世の中をあっと驚かせるような世紀の発明をしたらしいという情報は数日前から流れていた。しかしその内容は明かされず、100%ガンを直せる薬が出来たのではないか……とか、どんなハゲでもフサフサになる育毛剤の発明だ……とか、いやいやどんな爺さんでも死ぬまでビンビンでいられる勃起不全治療薬の発明に違いない……と様々な憶測が飛び交い、会場には海外メディアも含め八百人を超える報道関係者が詰め掛けていた。

夜7時、ライトが消え会場にミッションインポッシブルのテーマが流れた。客席に居る記者たちと招待された株主たちの間から歓声が上がった。一部上場企業の記者会見に似つかわしくないライブ会場のような雰囲気だ。

「皆さま大変お待たせいたしました。只今から世界が注目する、三橋製薬の新薬発表記者会見を始めさせていただきます」
 司会を務めるのは台場テレビの「赤パン」こと赤西瞳だった。もちろん赤パンの大ファンである社長・三橋たっての希望だった。赤パンが続ける。
「一体どんなニュースが飛び出すのでしょうか? それではこの方に登場していただきましょう、三橋製薬社長、三橋裕也さんです!」

ステージにモクモクと白いスモークが充満しその下から社長の三橋がせり上がって来た。
(社長目立ち過ぎ!)(三橋ワロス)(歌舞伎役者かよ)――記者会見をライブ中継していたニコニコ動画ではこの意外な登場に対して次々とコメントが書き込まれた。

 ステージにせり上がった三橋が爽やかな笑顔を振りまきながら客席に向け手を振ると大きな拍手と歓声が上がった。ジーンズに黒い長袖Tシャツ。これは完全にあのスティーブ・ジョブスのファッションをパクったものだったが、身体にぴったりフィットしたそのシャツは、三橋の毎日の腕立て伏せで鍛えた大胸筋の盛り上がりを際立たせ、セクシーかつエネルギッシュな印象を与えることに成功していた。

 なかなか歓声が止まない中、三橋が唇を動かしている。何か小声で喋っているようだ。何を喋っているのだろう……? とみんなが注目し会場がシーンと静まった時に三橋はスピーチを始めた。これは故立川談志師匠がよく使っていた手法を真似したものだったが、この効果は絶大でみんなが三橋のスピーチに自然と引き込まれていった。

「人類がこの地球に誕生して以来、我々人類はそのやむことの無い好奇心から、様々な夢を抱き、文明を進化させることで、その夢を実現してきました――」
(なんかすげー事言い始めたなこのオッサンw)(話デカッ)
「そして特に二十世紀は、発明の世紀と言われるほど沢山の人々を魅了する発明がなされました。飛行機、テレビ、電話、スペースシャトル、パソコン、携帯電話、スマートフォン……」 
(バイアグラ……)(ダッチワイフ!)(南極2号……)
「世の中には、発明はもう出尽くしたとか、インターネットが出た時点でこれ以上画期的な発明は出ないだろうとか、二十世紀で発明の時代は一段落した、そんなことを言う学者たちもいます……ですが皆さん! 本当にそうでしょうか?」

 このスピーチはもちろん三橋が考えたのではなく、PR会社のスピーチライターが考えたものを一週間かけて必死で覚えたものだったが、小中高と生徒会長を務め学芸会では常に主役を務めてきた三橋は大勢の前で喋ることは得意だった。緊張して呂律が回らなくなったり足が震えたりするということは全く無く、逆に沢山の人に見られていることに快感を覚えるタイプだった。天性の才能と言っていい。ステージの上手から下手へ、下手から上手へ、ゆっくりと歩きながらその間も爽やかな笑みを絶やさず絶妙な間を取りながら強弱と緩急をつけて三橋はスピーチを続けた。

「しかし私たち三橋製薬は、まだ人類が叶えていないシンプルな欲求、自由に空を飛ぶという欲求に注目しました――」
(もう飛んでるし)(飛んでるからw)(フライングゲットww)

「はい。確かに我々人類は、飛行機で空を飛ぶということは既に実現しています。今この東京の上空にも何台ものジェット機が飛び交っている……。しかし皆さん、飛行機に乗ること、イコール自由に空を飛ぶことだと言えるでしょうか? 狭いシートにベルトで体を固定され、席を立ってトイレに行くのにも、すいません、すいません、すいませんと隣の人に気を使わなければいけない。あれが、人類が夢見た自由に空を飛ぶという欲求の実現と言えるでしょうか?」
(確かにwww)(さっきディスった奴らいろんな意味でフライング)(ってことは……?)(マジッすか……)(フライングゲット?)

「さあ皆さん! もうお気付きでしょう。この度、我が三橋製薬は、人類史上初の画期的な薬を発明いたしました。それがこちら! 空を飛べる薬、フロートです!」

 再びミッションインポッシブルのテーマが流れ舞台の上手に水着を着たモデルが現れ華麗なポージングでフロートのパッケージを胸の前に掲げて見せた。パッケージは縦5センチ横10センチの長方形で、白と青のストライプが斜めに入っていて中央に金色のアルファベットで「FLOAT」と書かれている。

「さあ、皆さん、これがフロートです。我々に不可能なミッションはありません!」
(ミッションインポッシブルしつこすぎw)(チョコレートと間違えそう)(すげーいい女!)(一発やりて―)

 モデルがフロートのパッケージを上に向かって投げる動作をすると舞台は暗転明転を繰り返し、舞台が明るくなるたびに北京、モスクワ、パリ、ロンドン、ニューヨークなど世界の大都市の映像が映し出され、それらを背景にフロートのパッケージが宙を舞って飛んでくるという演出がなされた。そして、タターン! とミッションインポッシブルのテーマがラストを迎えると同時に、舞台センターで微笑みながらフロートのパッケージを手にしている三橋にライトが当たった。会場から拍手と歓声が沸く。

(ふざけ過ぎだろ)(三橋△)
 三橋はフロートのパッケージを開けた。三橋の後ろの巨大スクリーンにはパッケージから取り出されたフロートが映し出された。左半分が白、右半分が空色のカプセル剤で中央に「FLOAT」と記されている。

「皆さん、これがフロートです。風邪薬ではありません」三橋のジョークに笑いが起こる。
「一見何の変哲もないカプセル剤に見えますが、この薬を一粒飲むと……凄いことが起きるのです。ではこれから、私がこのフロートを飲んでみましょう……」

 会場に緊張が走る。
 三橋がフロートのカプセルを指でつまみ、ゆっくりとそれを口の中に入れ、ペットボトルの水を飲んで流し込んだ。

 ゴクッという音と共に三橋の喉仏が隆起する様子がスクリーンに映し出される。
 何が起きるのか――静寂。
 さらに静寂。

 湾岸線を行き交うトラックの音が遠くから微かに聴こえてくる。その他に何も聴こえない。

 30秒が経過した。が、まだ何も起こらない。

 客席に微笑みを配る三橋。
(やっちまった?)(失敗乙)(みつはしー風邪治ったか?)
 1分が経過した。
(はい終了)(三橋これから土下座)(三橋これから断髪)(三橋風邪完治w)

 が、次の瞬間――

(三橋浮いてね……?)
 三橋の靴とステージの床との間が数センチ開いていた。
(何これ引田天功?)(ピアノ線見えてない?)

 三橋が床から20センチほど浮いた時、会場はどよめき始め、その高さが1メートルを超えた時拍手と歓声が上がった。三橋が両手を広げおどけてみせる。
「皆さん、この程度で驚いてもらっちゃ困ります、見せ場はこれからです!」

 そう言って三橋がフーッと息を吐き両手を羽ばたかせると、三橋の身体はフワ―ッと一気に15メートルの高さまで上昇した。
(三橋神)(空中浮揚スゴ)(三橋はキリストを超えた……)

「ホラこの通り。一粒で約30分間浮かんでいられます。こんな風に寝そべることも出来れば、好きな方向に進むことだって出来ます」
 空中で三橋は平泳ぎや背泳ぎの動作をして空中を自在に進んで見せた。

「これは世紀の大発明です!」三橋が叫んだ。
 驚きの声と煌めくカメラのフラッシュが……歓声と興奮と割れんばかりの拍手が……、それら全てがこの瞬間を祝福していた。お台場の会場で起きたこの歴史的な瞬間を。

「どうでしょう皆さん! こんなエキサイティングな発明がこれまであったでしょうか?我々三橋製薬はついにその夢の実現に成功したのです。子供だろうが大人だろうが、男性だろうが女性だろうが、日本人だろうが外国人だろうが関係ない、この薬を飲めば誰もが空を飛べる、フロート出来るのです!」

 これは前アメリカ大統領オバマのスピーチを一部パクったものだったが、もはやそんな細かいことにつっこみを入れる者はいなかった。この様子を見ていた全ての者が「ヒトが宙に浮く」という不思議な現象に魅せられていた。

(みっちゃんすげー)(まさにフライングゲット……)
 ニコニコ動画には画面を埋め尽くすほどのコメントが書き込まれ、三橋がフロートしながらスピーチする映像はユーチューブで一日で1億3千万回も再生されるという新記録を樹立した。

 そしてこの数時間後には全国各地で「空を飛べる薬発明」のニュースを伝える号外が配られ、テレビのニュース番組はこぞってこの話題を伝え、ツイッタ―ではフロートに関するつぶやきが翌日の朝までに1億ツイートを超えた。

 こうしてフロートは一夜にして全ての日本国民に、そして全世界に認知されるほどの商品となった。いや、実は商品と言ってもフロートは医薬品としての承認をまだ受けていなかったから商品とは言えないのだが、人々はこの夢の薬をすぐに手に出来る、そしてフロートを体験出来るものと既に信じ込んでいた。そしてここから数カ月にわたって日本列島にフロート狂騒曲が響き渡るのである。


               「生生」

 ジャン! 人気司会者の五十嵐貫太がフリップをめくるたびにその音が鳴り響く。テレビ毎日の朝のニュース番組「生生」ではフロート発明のニュースを受け、いつにも増して五十嵐貫太のお家芸「フリップめくり」に力が入っていた。

 ジャン! フリップをめくる五十嵐貫太。
「なんとあの三橋製薬が……」
ジャン! さらにフリップをめくる。
「人類史上初の……」
ジャン! 最後のフリップをめくる。

「空を飛べる薬を開発……えー? 何これ? 本当? どういうことよ……」
「貫太さーん、お早うございまーす」
 中継画面に切り替わり、普段は「突撃生生朝グルメ」のコーナーを担当するグルメリポーターのヤヤ麻呂が登場した。
「あれ? ヤヤ麻呂君、朝グルメのコーナーまだ時間早いんじゃないの? え? 今どこに居るのよ?」貫太がモニターのヤヤ麻呂に向かって問いかける。

「貫太さーん、今日僕が来ているのはこちら、東京の芝公園でーす。実は今日僕がお勧めするグルメはこれなんです! はい! 今スタジオの皆さんがお話していた三橋製薬のフロートでーす!」ヤヤ麻呂がフロートのカプセルを取り出して見せた。
「ちょっとちょっとどこからもらってきたのよそれ? ヤヤ麻呂君? まだ発売前でしょ」
「今日は特別に、特別にこのコーナーの為に三橋製薬さんが一粒だけこのフロートをくださったんです。それでは早速、これから僕がこの今超話題のフロートを飲んでみたいと思いまーす!」そう言ってヤヤ麻呂がフロートを一粒飲んだ。

「え? 大丈夫なのヤヤ麻呂君、だって君、今体重何キロあんのよ? 浮くわけないじゃない、ねー曽我畑さん、いくら三橋製薬の発明っていってもね、あのヤヤ麻呂君が、あのサイズだもん浮くわけない……あれ! 何あれ、え? もしかして、えー? ヤヤ麻呂君?」
 そう言いながら、驚いた表情で貫太がスタジオのモニターに近付いていく。

「貫太さーん、ほらほら、どうですか? 僕でも浮きますよ」
 ヤヤ麻呂の身体が少しずつ宙にフロートしていく様子が画面いっぱいに映し出された。5メートル……10メートル……。
「それー」そう言ってヤヤ麻呂が手を羽ばたかせた瞬間、その勢いは一気に増して30メートルほどの高さまで浮き上がった。

「ウーワッ、ウーワッ、貫太さん、これ凄いわ! 体重90キロの僕でも宙に浮かぶやん! ウーワッ、東京の街が宝石箱みたいやわー」ヤヤ麻呂がはしゃいだ声を上げた。

 映像がスタジオに切り替わると、呆然と口を開けた五十嵐貫太の姿が映し出された。
「貫太さん? 貫太さん! 大丈夫ですか?」隣にいた女子アナが話しかける。
「あ! はい、いや、ビックリしちゃって……いやー、見ました今の?」そう言って貫太は目をギョロッとさせ口をあんぐりと開けた

 スタジオに並んだ三人のコメンテーターたちが「凄い」とか「信じられない」とか「びっくり」とか驚きの言葉と表情を連発する。
「いやー凄いねこれは……これどこって言った? 発明したの……?」
「三橋製薬です」女子アナが答える。
「三橋製薬! これは買いだね、三橋製薬の株は」
貫太のジョークにコメンテーターたちが手を叩いて笑った。

「まだ厚生労働省の承認が降りたわけではないので商品化されるかどうかは未定なのですが――」女子アナがすかさずフォローしたがそれを遮るように貫太が言う。
「いや、当然商品化するでしょう! 国民はみんな期待してますよ、ねー曽我畑さん」
「そうですね、日本の薬事行政ってもの凄く規制が厳しくてせっかくいい薬を作っても承認されるまでに何年もかかっていっつも海外のメーカーに先を越されちゃうんですよね。今日本の経済停滞してるじゃないですか。是非こういう商品を世界に先駆けて発売して日本は凄いぞ! ってとこ見せて欲しいですね。是非飲んでみたいですよ、私も。フロートしてみたい」

 ベテラン女性コメンテーターとして様々なワイドショーやニュース番組に出演しているエッセイストの曽我畑恵子が興奮しながら貫太に同調した。
「ほら、曽我畑さんがこう言うんだから、今年中に発売決まり!」

 チャーチャーチャータッタッタラ、ナマナマ! 
 五十嵐貫太の豪快な笑いとともに番組はCMに入った。

「貫太さんのってるなー」
 スタジオの隅で番組プロデューサーの長田は貫太のトークの歯切れの良さに感心していた。ここ最近「生生」の数字は芳しくなかった。

「生生」が始まってから今年でもう5年になる。番組開始当初は人気司会者五十嵐貫太のズバズバと物言う司会ぶりがうけ、同時間帯でのトップをぶっちぎっていたが、元々政治経済の話題には疎い貫太の知識不足からくる見当違いな問題発言に批判が殺到し、貫太がそのことを気にし過ぎたせいか、問題発言こそ少なくなったのだがその代わりに以前のような鋭い司会ぶりが鳴りをひそめてしまい、それとともに数字も下降していた。

しかし今日の貫太はどうだろう、生き生きとして本来のキレが戻っている。政治や経済の小難しい話題は苦手でも、今日のフロート発明の話題のように単純で分かりやすいテーマを扱わせれば貫太のトークは天才的だった。

 しばらくはこのフロートの話題を引っ張ろう、長田はそう決めた。このフロートに対する国民の反響にはもの凄いエネルギーを感じる。

 新型コロナによる大不況、毎年繰り返される豪雨災害……ここ最近の日本は暗い話題が多過ぎた。国民は明るいニュースに飢えていたのかもしれない。そこに登場したのがこの「空を飛べる薬」、フロート発明という驚くべきニュースだ。これはいける。間違いない。「三橋製薬三橋社長の生い立ち」、「三橋製薬研究チームのフロート発明までの苦難の道のり」とか、ネタはいくつでもある。特にあの三橋社長のキャラクターは面白い。一気に時代の寵児になるかもしれない。貫太と対談させたら絶対数字がとれるはずだ。思い切って彼をコメンテーターに起用するという手もある。

 視聴率は株式相場に似ている。それが長田の持論だった。株式相場では、「もう」は「まだ」なり、という格言がある。株価が上昇し続けもうそろそろ売り時だろと思ってもまだまだ上がり続けることがよくある。視聴率もそうだ。もうそろそろこの話題は飽きられるだろうと思った時は「まだ」だ。芸能人のゲス不倫、元プロ野球選手の薬物逮捕事件、元総理の性差別発言……一つの話題を一カ月二カ月、しつこいぐらい扱った方がいい数字が出ることを長田はその経験から知っていた。

 長田は今五十二歳。そろそろ役員の椅子に手が届く年齢だ。出世争いでは同期の中では常にトップを走ってきた。そんな長田にとって「生生」の視聴率低迷は手痛い失点になっている。何とかしなければ……そんな焦りばかりが先に立ち、数字が付いてこない空回り状態が続いていた。
そんな時に降ってきたのがこのフロート発明のニュースだ。長田にとってはまさに僥倖だった。この話題をきっかけに再び「生生」が視聴率首位を取り返せば――失点は帳消しになるはずだ。ビッグチャンス到来だ。
 スタジオではCMが終わり再び貫太が威勢よくフリップをめくっている。
 どんどん攻めてやれ――長田は心の中でそうつぶやいた。


              PRプランナー

 今人気の豊洲エリアにある高層マンション――なかでも住人専用のバーラウンジからスカイツリーが、大浴場からはレインボーブリッジが見えるこのマンションは特に人気の物件だった。

 その27階の部屋の30畳のリビングルームで田辺正仁は真っ白な革張りのソファに寝そべってソムリエの知人からもらったシャブリをグラスに注ぎ、つまみのブルーチーズと生ハムのサラダを食べながら壁掛け式の五十インチのテレビでクイズ番組を見ていた。
 
現在では当たり前となった新婚旅行ですが、日本で初めて新婚旅行に行ったのは坂本龍馬である……○か×か? さあどっち! えーわかんない、あーどうしよう。それでは正解の発表です! 果たして正解は……? ○でーす! よっしゃー、ちくしょー、(ドン)わ、なんだよこれ、(バシャ―ン)アチッ、熱湯だよこれ! これ熱湯だよ! (ハッハッハ)、正解者の方へのご褒美は、なんとこれ! 今話題の空を飛べる薬、フロートを体験出来まーす! やった! うれしー、わーいいなー、まじ熱いんですけど! それではどうぞ! うわーすげー、なにこれ、すごくない? 浮いてる浮いてる……。前のめり金太さーん、どうですか今のご気分は? いやーまさに下々を見下ろす上流階級の気分ですねー、ルネッサーンス! (ハッハッハ)それは人のギャグだろ! (ハッハッハハッハッハ)
 
 何も考えずにこういうくだらない番組を見ている時が一番リラックス出来る。普段脳をフル回転させる仕事をしているだけにオフの時には出来るだけ脳に休息を与えなくてはならない。正仁はそう考えていて、一人でボケーッとだらしなく過ごす時間を大切にしていた。

 正仁が所属するAZマーケティングは外資系のPR会社だ。正仁はそこでPRプランナーをしている。PRプランナーの仕事というのは言わばブームの仕掛け人だ。

2年前「バレンタインに和菓子を送ろう!」というコピーで正仁が仕掛けた「和菓子女子」のブームは大成功しクライアントである老舗和菓子メーカーの売り上げは3倍に伸びた。そして週に一度のスイミングが脳を活性化し出世につながるという「週一スイマー」ブームは水着メーカーの売り上げを倍増させた。

クライアントは企業だけではない。前回の総選挙の時は結成されたばかりの「新党つばさ」の選挙戦略を依頼されたし、シンガポール政府から依頼されポスト韓流ブームとして仕掛けた「シンガポール・アイドル」ブームも正仁の仕事だった。

 これまでいろんなブームを仕掛けてきてPR業界の風雲児とも言われるようになっていた正仁であったが、今正仁がブームを仕掛けているフロートという商品は彼の人生の中でも一番の大仕事になるかもしれなかった。

 あれは半年前のことだ。三橋製薬の社長――三橋裕也から直々に、緊急で話がある、という電話があり正仁は三橋製薬の社長室を訪れた。そこで三橋からあの空を飛べる薬フロートが発明されたことを打ち明けられ、「これは世界をひっくり返すぐらいの商品だ、そのためにあなたの協力が欲しい」と言われた時には「この社長頭おかしいんじゃないか」と思ったが、後日三橋製薬の研究所で実際にフロートを飲んだ人間が宙に浮くのを目の前で見た時には心底驚いたと同時に、これはPRプランナーとして自分の名を歴史に残す大チャンス到来だと身体中の細胞が勃起するような興奮を覚えた。

 この日から正仁はまるで佐川急便の配達員のように忙しく東へ西へと走り回る日々が続いた。日頃から大事に育み維持してきた各メディアの担当者とのパイプを生かし「三橋製薬がもの凄い商品を発明したらしい」という噂をマスコミに広め、それはどうやらたった一ヶ月でフサフサになる育毛剤らしい……とか、100%ガンを直せる薬だ……とか、どんなジイさんでも生涯現役でいられる勃起不全治療薬のようだ……とか、そういうデマも意図的に流し、人々のその発明に関する新情報への飢餓感がピークに達する頃を見計らって大々的にフロートのお披露目記者会見を開催した。そしてその後も発売に至るまでフロートの話題が安定してメディアで扱われるようにテレビの報道、バラエティー番組のプロデューサー、雑誌記者などに働きかけた。

 PRプランナーの仕事は発想力が必要なのはもちろんだが一番重要なのは人脈だ。正仁はそう思っている。それが分かっていない奴はどんなにクリエイティブな才能があっても二流で終わる。各メディアに信頼できる人脈をどれだけ持っているかがライバルのプランナーたちとの競争で一歩抜け出すための鍵になるのだ。だから正仁は普段からそういう連中との付き合いや接待、贈り物などを欠かさなかった。その中身はいろいろだ。接する相手によってこちらが用意するものも違ってくる。

 テレビ局の報道部の連中などに直接金を渡すことは厳禁だ。エリート意識が高い相手にそういう露骨な手段はそぐわない。相手は腐っても報道畑。彼らの正義感とプライドを崩さぬ範囲でたぶらかさなければならない。人気アーティストのチケットやサッカー日本代表のチケットをプレゼントするのは結構喜ばれる。合コンやキャバクラなどで女の子を口説くとき重宝するらしい。あとは月に二回程銀座や六本木のクラブに連れて行ったり、奥さんの誕生日に旅行券をプレゼントしたり……こういうことを定期的にさぼらずやっておけば手なずけたも同然だ。「今この商品が話題です!」という特集を組んでくれと頼めば大体引き受けてくれるようになる。

同じテレビ局でもバラエティー担当のプロデューサーだと露骨にソープに連れてってくれとかモデルの卵を抱かせてくれとか要求してくる奴らが多い。心の中では下品な奴らだと軽蔑しながらこちらも奴らのレベルに合わせて「スケベなおっさん」を演じなければならない。

 こうしたクリエイティビティとは無縁の生臭い人付き合いにほとほと嫌気がさす時もあるのだが、どんなつまらない商品でも自分が仕掛ければ大ヒット商品にすることが出来る、世の中を自分の思うままにコントロール出来る、そういう実感を味わえることは正仁にとってどんなものにも代えられない快楽だった。

 フロートの発売予定は半年後。ここまでは順調だ。あともう少し頑張りさえすれば大きな成功が待っている。

 テレビでは名前も知らない芸人が和田アキコのモノマネをやっている。ヘッドフォンをした審査員たちが「似てる似てる」と頷いている。確かにそっくりな声だ。
 歴史に名を残してやろう――そう思いながら正仁はテレビから流れてくる音楽に合わせ「あの鐘をー鳴らすのはあなーたー」と口ずさんだ。
 


                承認
 

 この半年間、三橋製薬社長の三橋は厚生労働省の承認を得る為の工作におわれていた。フロートがどんなに凄い発明品だとしても、発売の許可が下りなければ何の価値もない。

三橋はまず都内の病院に入院中の父親に相談しに行った。
三橋の父親、三橋喜三郎は七年前に食道がんが見つかり社長の座を息子に譲った。大手術の後一旦は回復したものの、去年がんが再発し、がんは肺や肝臓にまで転移していて余命いくばくもない状態であった。そんな状態の父親に仕事の相談を持ちかけるのにはためらいがあったが、喜三郎は息子の相談に喜んで応じてくれ、「だったらあいつに頼んでやろう」と旧知の仲である民自党の議員、安田正義にベッドの上から電話をかけてくれた。

 民自党厚生族のドンと言われる安田正義は喜三郎からの電話を受け病院に見舞いに訪れ、涙を流しながら喜三郎の手を取り「必ずわしが承認をとってみせる」、「安心しろ」、「親友の最後の頼み絶対に叶えてみせる」と言ってその日からフロートの承認に向けて全力を尽くし厚労省に働きかけてくれた。

 安田がここまで一生懸命になったのは彼が親友思いの義理人情に厚い昭和堅気の人間だったからという訳ではなくて、安田はずっと昔から三橋製薬の株を大量に保有していたため、フロートが承認されることになれば三橋製薬の株価上昇により莫大な利益が転がり込んでくると踏んだからだった。

 日本の薬事行政は規制が多く審査も厳し過ぎるほど厳格で、臨床試験から新薬の承認まで至るには10年近い歳月を要するのが普通だった。しかし承認は必ず得られる。そう三橋は確信していた。

あのフロート発明を発表した衝撃的な記者会見以降、世間はフロートの話題で持ち切りだった。誰もがフロートの発売は決まったものと信じ込み、その瞬間を待ち焦がれている。「結局承認されませんでした……」そんな結果を世間が許すはずがない。

結局世の中は世論で決まる。その時その時の空気で決まるものだ。政治家はその空気を読む。ワイドショーの司会者もコメンテーターもみんな空気を読んで発言する。今フロートの承認に対してNOと言った政治家は多くの票を失うことになるだろう。承認するのは危険だ、なんて空気の読めない発言をしたワイドショーの司会者やコメンテーターには苦情が殺到し番組の視聴率だって下がるはずだ。今まさに世論がフロート承認の後押しをしてくれている。

 ただし油断は禁物だ。この国の民衆は熱しやすく冷めやすい。

 三橋がそのことを身を持って体感したのは1990年代に起きたJリーグブームだった。当時学生だった三橋はスポーツが得意な訳でも勉強が出来る訳でもなく、金持ちのボンボンという以外になんの取り柄も無い三流大学の学生だった。学生時代の三橋の頭の中にあったのは卒論のテーマとして選んだ『バブル崩壊後の日本経済に必要とされる構造変化』ではなく、どうやったら女にもてるか? という世の男たちが抱える永遠のテーマだった。そこで三橋が飛びついたのがJリーグブームだった。それまでオフサイドのルールも知らなかった三橋は毎月「サッカーマガジン」を買って必死で世界の名選手の名前を暗記してサッカー談議に加わっても恥をかかないくらいの知識を詰め込み、試合の日には顔にペイントをしてゴール裏でお目当ての女の子をマークしてカズやラモスやジーコのゴールに熱狂し、その流れで女の子をホテルに誘ってベッドの上でハットトリックを決めた。

 しかし、開幕した年には超満員だったスタンドが2年目には約半分くらいの入りになり、3年目の開幕戦のスタンドに残っていたのは、「おめーらやる気あんのかよ」、「もっと声出せや!」とからんでくる暴走族のような狂信的なサポーターと、地元のボランティアの爺さん婆さんくらいなもので、元々サッカーにはなんの愛情も持っていなかった三橋は逃げるようにスタジアムを後にした。

帰りの総武線の中で可愛い3人組の女子大生が三橋たちの顔のペインティングを見ながら「うわっダサーい」とヒソヒソ声で話しているのが聞こえ、三橋は家に帰ってからドーハの悲劇でイラクに同点ゴールを決められた時のラモスのような表情でベッドに崩れ落ち頭を抱えた。たった2年前は最先端を走っていたはずが、総武線の中で指をさされて「ダサイ」と言われるまでに落ちぶれてしまった。必死でサッカー選手の名前を暗記して頭に詰め込んだあの努力は一体何だったんだろう? 心に虚しさだけが残った。この時三橋は学んだのである。日本人は極端に流行に流されやすいことを。

 あの時のJリーグブームと同じだ。今でこそみんなフロートの話題で盛り上がっているが、もし他に大きな芸能スキャンダルやニュースが起きたら世間の関心は一気にそちらへ移るだろう。そうなったら貰えるはずの承認も貰えなくなる。鉄は熱いうちに打て! だ。今このチャンスを逃したら次はない。

 三橋はラストスパートをかけた。知り合いの芸能プロダクションの社長に頼んでそれほど売れてないグラビアアイドルや女優の卵を何人か用意してもらい、官僚たちの夜のお相手をしてもらった。いわゆる性接待だ。学生時代勉強ばかりしていて可愛い女の子とは口もきいた経験もないガリベン官僚たちはこういう色仕掛けに極端に弱かった。厚労省のTOP3はあっけなく陥落した。

 その上で官僚たちのプライドと責任感に対するフォローも忘れなかった。つまりアイドルやモデルとのセックスと引き換えにフロートを承認した――というのはプライドの高い官僚たちには受け入れがたい事実だ。そこで「このフロート発売はいかに低迷した日本人のマインドと日本経済に好影響を与えるか」という主旨のコメントを複数の経済学者にしてもらい、「フロートはウォークマン以来の久々に日本が生みだした画期的なイノベーションだ」という内容の記事を沢山の週刊誌や経済誌に掲載させた。こうして世論を盛り上げることで、このフロートという商品を承認することは日本の為になることだという認識と大義名分を官僚たちに持たせ、そして万が一後で何か問題が起きた時には、これは自分たちだけでなく当時の世論全てが望んでいたものだという免罪符を与えたのである。

 そして言うまでもなく厚労省から三橋製薬への天下りポストも倍増させた。
 こうして事は三橋の思い通りに進んだ。普通なら3年くらいはかかるのが当たり前の承認が驚くほどあっという間、たった10カ月で得られたのである。
 


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