サルトルなんてアバヨ!

私はフランス人の政治的な話や言説は信用できないと思っています。
今日、ある方のFBへのフランス思想家の記事に
「サルトルは信用できない、フランス人と政治的な話はできない」
と書いたのですが、偶然ツイッターにルモンドのサルトルを巡る記事がアップされていたので引用します。
このルモンドの記事の著者は、これだけの言葉を用いて何を訴えたかったのでしょうか?
書いてあるのは、過去の栄光と時流的な反応しか無く、どこにサルトルの有用性や正当性が証明されているのでしょう?
私は70年代前後のフランスの政治的な運動や、それに便乗したサルトルの政治論などは「フランス趣味」でしか無いと思っています。正当性が見つからないからです。
引用した元記事は全文を読む必要はありません。あまりに長ったらしく無益だからです。そんな点もフランス的だと思いますが・・

「参照記事抜粋」
我々が目の当たりにしているサルトルの拒絶は、栄光の影に隠れた裏側の論理なのだ。それはスクリーンに登場する偽物の知識人が持つ良心のやましさだ。サルトルの拒絶は、知識人がテレビの出演や影響力のある友人によってではなく、その人の思想や業績、作品、決意によって、その名にふさわしい存在になるのだということを我々に思い出させてくれる。時代は変わった、闘いや要求は限られた範囲内でしか認められなくなった、と繰り返す手軽な思考の実践者には、公共の利益に対するいかなる変化も、小さな声で「ウイ」とつぶやくのではなく、大きな声で「ノン」と意思表示することによってしか実現できないのだと反論することができる。闘いの始まりには常に拒否がある。サルトルを拒絶した知識人やジャーナリストは、彼らが発する言説からうかがい知れることとは裏腹に、そのことをよく知っている。サルトルの発言を歪曲し、息が詰まるほど恥をかかせることは、慣習や権力の持つ影響力に抵抗する我々の自由を損なうことだ。それは、すべての言葉が等価だと信じ込ませ、それらの値打ちを落とすことに一役買わせようとしている。だが、知識人の責任とは、言葉に頼ることである。サルトル自身の言葉によれば「装填したピストル」に訴えるように。

参照元記事 http://www.diplo.jp/articles20/2011-08Sartre.html?fbclid=IwAR1HsOB4E6GdD3whYhYX8FPaWaWb3CSrmPZUsNR2_bCn3A3wSgNbwLDuZ-o