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#10,異国での乳癌診断と自閉症子育て

私が乳癌の診断を受けたのは2021年の冬の終わり。息子が10歳の誕生日を迎える半月前のことだった。

前々から左胸に触れるコロッとした腫瘍には気がついていた。そして気にもなっていた。ただ、私は20代の時に同じ場所に腫瘍が出来て、その時は「乳腺線維腫」と診断され摘出したが良性腫瘍だった経緯がある。なので、今回もまたそれだと思っていた。

病院に行かなきゃなぁと気になりながら恐らく半年くらいは経過していたように思う。なんせ、不登校になった息子も、精神科受診やら、自治体からの呼び出し、新しい学校探し、それに加えて度重なるメルトダウンに、毎日ヘトヘトに疲れていたのだ。

加えて私はその頃、家からできるオンラインでの学校講座を受けていて忙しくしていた。そして何より、母子分離不安症のあった息子を家に置いてドクターに行くのは容易ではなかった。

そんなこんなで先延ばしにしていたところ、不思議な事が起きた。日本人の友達に借りていた本をめくっていると、パラっと乳癌検診のパンフレットが挟まっていたのだ。

後で聞いたところによると、彼女の妹さんが日本から送ってきた時に挟んであったらしく、異国へのお姉さんを気遣う思いからだった。その優しい思いやりが私にまで届き、それを見た瞬間「あ、行かなきゃ私」と思ったのだ。

今考えても、もしそのパンフレットが目に入らなければ、私の乳癌は既にあちこちに転移してしまっていたかもしれない。友人の妹さんの思いやりには感謝してもしきれない。

そこからは、有難いことに話しが早かった。まずホームドクターで触診のあと、彼女はすぐに検査の出来る病院への紹介状を書いてくれた。

私のホームドクターは移住してきた2010年からずっと変わらずいつも優しい。私に、何かあればすぐに電話してくるようにと言ってくれて、実際にそのあとの抗がん剤治療の時も何度か心配して電話をかけてきてくれた。

その先生からの紹介で1週間後に行った検査病院では、まずマンマエコーを受けた。そこでも私はまだ良性腫瘍と信じようとしていたのだ。

エコーの画像を見ながら、今までに何百人と診断を下して来たであろうベテランドクターの顔色が曇ったのを感じるまでは。。。

彼は一言「あんまりいい顔つきをしていないねぇ」。私はそれで全てを察した。良性腫瘍ではなさそうだ。そこからは、すぐに組織検査の準備がされ、3ヶ所組織を採取した。どうやら一ヶ所だけではないらしい。。。

「前にも良性腫瘍を取ったことがあるのですが、まさか今回は癌ですか?」

彼は黙ってメガネをかけ直した。

「組織検査の結果が出るまで確定診断は出来ません。検査結果は大きな病院に送るので来週そこで話を聞いてください。ただ一つ言えることは、君は今日この時点でここに来て本当に良かったよ」

病院を出た私は、近くのスーパーにまず入り、気を落ち着けるために、普段買ったことのないような甘ったるい子供用のココアの飲み物だけを買って店を出た。そしてぼんやりしながら、気がついたらそれを飲みながら駐車場に止めてあった車の運転席に座っていた。とりあえず主人に電話をして「まだわからないけど…」と付け加え、心臓が鼓動を打つ中、その後なんとか自分で運転して家に戻ったのだった。

翌週の大きな総合病院の乳腺外科での診察には主人も付き添ってくれた。診察の時に、どんなふうに癌の告知を受けたのか、あまりのショックで良く覚えていない。ただ涙をポトポト落とす私に、診察室にあったティッシュペーパーの箱を、担当ナースがそっと差し出してくれたのだけ良く覚えている。

ドクターは一通りの治療を説明してくれた。私の癌は、HER2陽性、ホルモン受容体陽性で、既に1.8mmと6.8mm、癌が2ヶ所に分かれている進行の早いタイプとのこと。

まずは抗癌剤で進行を止め、ダウンサイズを期待してそれから手術。そして、もし乳房温存術を行うのであれば、術後5週間の放射線治療も必要。また抗癌剤と並行して行う抗HER2薬と呼ばれる点滴は術後も合わせて全部でおよそ1年間続く。そして、抗ホルモン剤(こちらは飲み薬)にあたっては、再発予防のために術後10年間の服用が必要との事。

担当医は、今後の治療計画が書かれた紙を見せながら丁寧に説明してくれたが、その時の私には気の遠くなるような話しで話しはほとんど頭に入ってこなかった。

私は一番の気がかりを口にしてみた。乳癌には関係がないけれども。

「私の息子自閉症で、今学校に行けてないんです」。

なんと、乳腺外科ドクターの2人の息子さんも、もう成人されているが自閉症だと教えてくれた。ここでもまた大きな目に見えないお守りの力を感じ、彼は、私の心配や大変さを良く察してくださって心が少しだけ軽くなった。

その日、息子は主人のお義母さんに家に来てもらって一緒にお留守番をしてくれていたのだった。

息子になんて説明すればいいのだろう、脱毛で変わって行く私を彼はどう受け止めるのだろうか、これからの治療の間は息子の世話はどうすればいいのだろう。そして何より、もし私の身に何かが起こった場合、これから息子は誰を頼って生きていけばいいのだろう…そんなことばかりが頭の中をグルグル回っていた。

その翌週には、早速同じ病院の乳腺腫瘍外来を受診した。そこでも、今後起きるであろう副作用、治療の経過など、丁寧な説明を受けた。

何を隠そう私は日本でナースとして10年以上病院勤務の経験がある。抗癌剤の治療も副作用の看護にも携わったことがあり、経験からどんなものなのか良く想像できる。

でも、自分が患者になる時、その知識と経験は全くと言っていいほど役にはたたなかった。

紹介された癌治療の外来には、見たことのある赤い色をした点滴を受けている脱毛している患者さん達が、グッタリと横たわっていた。

私は自分がこれから、癌の役を演じなければならない女優で、だから今ここに芝居の勉強のために見学に来ているのだ… 、そんなおかしな錯覚に陥ったことを良く覚えている。人はあまりのショックで受け入れられない時、脳が拒否して現実逃避出来るように出来ているのかもしれない。

この国では医療や手術の待ち時間は時には年単位と長い。にもかかわらず、幸いなことに、さすがに癌治療の場合は緊急対応できる仕組みになってるらしく、私は翌週には、もうそこで始めてのEC療法を受けていた。

それは、息子の10歳の誕生日の前日のことでであった。

続く…



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